栗本 薫 真夜中の天使3 [#表紙(表紙3.jpg、横180×縦261)]     11 「お疲れさん」 「はい、どうもご苦労様」  本番OKのキューが出て、スタジオにあかりがつくと、とたんにあたりはざわざわとした。 「お疲れさん」 「いやあ、|グンバツ《ヽヽヽヽ》」 「よかったよ、ジョニー」  口々に声をかけるスタッフに、夢見るような微笑をかえして、控室に入ると付人たちがとんできた。 「お疲れさん」 「どうだった、音うかなかった?」 「大丈夫、大丈夫」  新曲『ガラスの天使』をテレビで歌うのは、今日がはじめてである。良は途中で一箇所七度いっぺんにおりるところをひどく気にしていた。 「はやりそうな曲だねえ」 『ヤング・アルバム』の司会をしている、もとアイランダーズの江島健が良に笑いかける。良ははにかんだ微笑を見せて、真珠の四連のネックレスを首からはずした。これは滝に『裏切りのテーマ』の首位独走の褒美に貰ったもので、黒っぽい。 「もうこれであがり」 「ええ」 「すごい真珠だなあ」  清が受け取って箱におさめる。良は白いレースのチュニックをひっぱるようにぬいだ。江島は値ぶみするように眺めてなかなかどかない。 「へえっ、細いんだねえきみは──どう、この白いこと」  良は少し赤くなり、清が怒ったような表情になった。 「二百万枚突破だってねえ」  村瀬吾郎が横から話しかける。 「すげえな」 「マルスさんもすごい景気でしょう」  村瀬のマネージャーが杉田に云った。 「ジョニー大明神だ」 「いやあもう、こっちはほんのお裾分け程度ですからね」  江島健も加わって、三人でしきりにレコード会社の丸もうけとプロダクションの損な立場を慨嘆しているのを、渡辺が笑いながら見た。 「さあ、かぜひくよ」  しきりにペンダントをとめようと苦労している良の指から鎖をとって、とめてやると、良はシャツのボタンをとめながら、渡辺を見あげた。 「ねえ、滝さんどこ行くって云ってた?」 「さあ──今日はどこってたかなあ──清覚えてっか?」 「いえ」  清は重い口調で云う。 「たしか、リサイタルのことで人と会うとか云ってたけど、あの人は神出鬼没だから」 「おそいのかなあ」 「じゃないかな」  渡辺は清をちらりと見た。 「山下先生ですか」  清は渡辺の声をきかなかったふりをして、目をそらして舞台衣装をたたんでいる。浅黒い、一見鈍重な感じだが目鼻立のはっきりした若者だ。切れの長い目がひとえまぶたで、唇が厚く、少し猪首だった。 「そうじゃないの」  良はちらりと杉田たちを見、渡辺の腕をひっぱった。 「ねえ、先生きっと待ってると思うんだ。でもさ──ぼくちょっと約束しちゃったの」 「じゃそう云えばいい」 「だって、またくどいもの。ね、ナベちゃん、お願い──ね?」 「また?」 「今度だけだから。ね」 「そりゃ、いいけどね」  渡辺は困ったような顔をした。 「今日はどこです」 「耳」  渡辺が耳をさしだすと、良はひそひそと、「みゆき御殿」でバーベキューをするんだと誘われているのを打明けた。 「あそこへ行くと滝さんに叱られるよ」 「だからさあ──山下先生と行ったって云ってよ。お願い、今度だけ。だってわるくって断われないからさあ、あのひとじゃ……」 「いいですよ」  渡辺は諦めたように云った。 「なんで、そんなもの楽しいのかわかんないけどね」 「ぼくだって楽しかないけど、でも義理ってあるじゃない」 「また佐伯さんも?」 「うん、そう、みんなわーっと……」 「わかったよ、じゃ先生にはうまいこと云うから」 「サンキュ──だからぼくナベちゃん大好きさ」  良は猫のように目を光らせて笑った。 「あそこなら、帰りも誰かしら一緒だしね」 「うん」 「あまりおそくなっちゃ──」 「わかってるって」 「子供だねえ、バーベキューなんて」  渡辺が苦笑して云った。 「だって……」  ちょっと口をとがらして何か云いかけた良が、突然目を細くし、きき耳をたてた。 「へえっ、ついにねえ」 「いずれやると思ってたけどね。あの連中だもの」 「それにしてもなんでまた一年も前のことをいまになって起訴とは──びっくりしてるだろう、ブラッドの連中」  良の目が光った。村瀬吾郎のマネージャーが新聞を手にしている。 「婦女暴行致傷に輪姦か、これじゃ『消され』るな」 「輪姦は十年くらうっていうじゃないの」 「こんな破廉恥罪じゃいくら──がついててもさ、だめだな」  江島はそこだけ声を落した。 「マカベさんこりゃ泣き面に蜂だ」 「連中は『トレイン』で大賞候補だったからな。さて、これで誰が得するか、だが……」 「ま、身から出た錆だな」  良は何も興味のなさそうな顔をつくって、杉田の腕をひっぱった。 「ねえ、ぼく上がっていいの」 「あ、じゃ皆さん、どうもお疲れ様でした」 「ああ、じゃ、どうも」 「どうするって、これから」  杉田は良を見かえってきいた。 「ぼくちょっと──キヨちゃんに送って貰うから」 「ああ、そう」  杉田は恬淡としている。良は渡辺にウインクし、清の逞しい背を押して、裏からテレビ局を出た。ロビーの方にはおそらく山下が待っているし、良をひと目見ようという少女ファンもつめかけているだろう。良を待たせておいて、清が車をまわしてくると、急いで乗りこんだ良はかご抜けの成功をよろこんでくすくす笑った。 「白井先生のお宅?」 「キヨちゃん、青山へ行って」 「青山?」  清は眉を寄せた。 「白井先生のところじゃないんですか」 「うん──『ミモザ』に……佐伯さん待ってるから、あのひとに連れてって貰うから」 「おれが送りますよ」 「いいんだってば──約束してんだから」  つっけんどんに良は云ったが、ふと気がさしたらしく、清を見あげる目に巧みな甘えを滲ませた。 「ね、ナベちゃんには、成城へ行ったって云ってね」  清は黙りこんでいた。口の重い青年である。良は不安になったようだった。 「どうせほんとに行くんだから──ねえ、内証にしといてよ」 「渡辺さんに云わなくちゃ」 「そんなこと云わないで──ねえ、ぼくの味方キヨちゃんだけなんじゃないの」 「そんなことないよ。みんな、ジョニーのことを考えてくれてるのに」 「ぼくそれがいやなんだよ──それがたまらないんだよ。みんながみがみ云って、朝から晩まで見張ってさ……ぼくだってもう子供じゃない、じきに十八だぜ。檻ん中で見張られてちゃ、息もできやしない」  良はちらりと清の横顔をうかがったが、ふいに甘ったれたしぐさで清の厚い肩に頭をもたせかけた。清の浅黒い顔にとたんに血がのぼって、どす黒くなる。 「──運転できないよ」  清は少しかすれた声で注意した。しかしそのひとえの目はおさえきれぬ感情を見せていた。 「ぼくのこと、仕様のない奴だと思ってんだろう」 「別に……」 「だけど、ぼくだって、可哀そうだよ。そう思わない? とにかく云われたとおりに歌って、走りまわって、にこにこするだけの人形でさ──どこに行くにも見張りつき、どこ行くんだ、何するんだ、いつ帰るんだ──家に帰れば滝さんと一緒だしさ。もしキヨちゃんがいてくれなかったらぼく……」  良は激しい感情をおさえているように声を呑んだ。清は良の方を見る勇気がないように、顔をこわばらせて運転に神経を集中していた。 「ほんとは、白井先生とこだって別に行きたかないんだ」  良は低い声で云った。 「だけどぼく──しょうがないからだよ。滝さんは、ぼくに、あの婆さんに気に入られるようにしろって云うんだ。でもそれで山下先生もしくじらんようにうまくやれって……だけどぼくそんなのわかんないじゃない」  清の肩はこわばり、そこに乗っている贅沢な重みを激しく感じているようだった。良はふと面白くなってきて、頭をその肉の厚い、デニムのシャツにつつまれた肩にすりつけるようにした。 「ぼくは、みんな滝さんの云うとおりにしてるだけだよ。あの人がぼくを操ってるんだ。ぼくはほんとは、白井先生も嫌いだ。山下先生も嫌いだ、みんないやらしい、汚ない奴ばっかりだこんな芸能界なんて──ぼくは、何を信じていいんだか全然わかんないよ。ぼくは──淋しいんだよ。誰も信じられない」  清は何か云おうとしたがうまく云えないらしく、黙ってしまった。良はやりすぎたかとそっと頭を起して、指の関節をかじった。清が見ているのを知って、睫毛を伏せ、拗ねた子供のように淋しげな表情を作る。 「みんながぼくのことを考えてるなんて──それは、ぼくが連中の商品で、破損したり、汚したりしたら困るからってだけじゃないか。ぼくのことを──ほんとに可愛いと思って心配してくれるひとなんか、ひとりもいやしないさ」  良はひとりごとのように呟いて、外の景色に目をやっているように見せかけてガラスにうつる清の表情を眺めた。清は顔をまっすぐ前にむけ、厚い唇をぐっと結びしめて、こわばった表情をしていた。良はガラス窓に頬を押しつけて、やっぱりただの|カッペ《ヽヽヽ》なんだと内心肩をすくめて考えていた。 (からかったって、つまんないや)  それきり黙りこんで、青山の『ミモザ』の駐車場に車がすべりこんでとまるまで、どちらも意地のように口をきかなかった。とびおりて、まわってきた清がドアをあけてくれる。すんなりとおり立って、良はもう興味を失っていたがついでだとばかり長い睫毛をあげてもの云いたげな表情で清を見あげた。 「ナベちゃんや滝さんに──お願い、ね?」  清は少し唇を開き、食い入るように良を見つめている。良はその目の異様なかぎろいを見て少しこわくなってきた。  良はときどき清をからかって、自分の云うことをきくように仕立てあげようとこころみるのだが、そのたびにあまりあからさまな激しい反応がかえってくるのにびっくりして後ずさるようになり、それからしばらくはじゃけんにしたり、故意に冷たくあしらったりしてごまかそうとする。  しかし山下はすでに唯々諾々だし、滝は一枚うわてで、渡辺はひたすらやさしいばかりで手応えがなく、サブマネの杉田は人間がきちょうめんでからかうに値しない。  北川女史やメークさんなどの女性のスタッフには良はあまり関心がなかった。女性たちははじめから良の魔力に手もなくなびいているようなことを云うくせに、男たちのように自分を忘れて溺れこんでくるようなところがないからである。女たちにとって、良は目に快く、うっとりするような美しい人形にしかすぎないらしい。  それだから、いま良がからかったり弄んでいちばん面白いのは、それにともなう危険の予感のゆえに、清なのだった。 「じゃ、帰っていいよ、ぼく佐伯さんか大ちゃんに送って貰うから」  いそいで云い足して、良は身をひるがえした。『ミモザ』の階段をはずむ足どりでおりてゆく。ようやくお付きを全部追っ払ったと思うので嬉しそうだ。  良はその猫のように敏捷で優雅なうしろ姿をそれが地下式のクラブに消えてしまってからさえ追い求めるように目をあてたまま立ち尽している清の、こみあげてくる何かを必死に踏みこらえるようにひきつった表情をむろん知らなかった。  階段をおりて、ガラスの黒いドアを押すと、低いテナー・サックスが流れてくる。 「ああ、ジョニー、珍しいね、ひとり?」 「あのう──」  嘘のようにおとなしい初心そうな表情を良はつくって何度か連れられて来て顔馴染になっているマスターにはにかんだ微笑を見せた。 「佐伯さん──いらしてますか」 「真ちゃんとデート?」 「そんなんじゃないけど──」 「おーい、北さん、真ちゃん来てるかあ」 「あれ、いまさっきここにいたのに」 「じゃいいです、ぼく、待ってますから」 「何かつくってあげよう」 「いえ……あの、夕刊あるかなあ」 「そこだよ」 「おやジョニー、ひとり? お取巻き連は?」 「あ、北島さん、チャオ」 「いいのかねこんな坊やがひとりでスナックなんか来て」 「いいよ、ねえ、ジョニー、うちだものねえ」 「でもさ」  向うで囁くのがきこえる。一見の客だろう。 「ほんとにどきっとするくらいきれいな子だねえ。テレビで見るよりきれいだな」 「思ったより小柄なんだね。でもあっというまにスターになったシンデレラ・ボーイにしちゃ、ずいぶんすれてなくてフランクみたいだな」 「ああ、スターにゃやな奴が多いもんな」  良はいくぶん頬を赤らめてきこえぬふりをし、夕刊をひろげた。あまり激しい関心を示していることがけどられてはと自制しながらも、手が震える。三面の中段に、かなり大きな扱いで出ている記事を良はむさぼるように読んだ。 「人気バンド、ブラッド書類送検へ」とある。 「『ミッドナイト・ブギ』『トレイン』などのヒット曲で若者に人気のあるグループ、竜新吾&ブラッド──マカベプロダクション=真壁佐紀社長=所属──のメンバー、竜新吾(27)大木健一(26)金森裕(27)木田道男(25)佐久間茂(23)の五人を輪姦、婦女暴行致傷の容疑で調べていた西荻署は、取調べの結果都内在住の被害者A子さん(20)の訴えを全面的に事実と認め、十九日付をもって五人を書類送検に踏みきることになった。容疑は同バンドの五人がファン・クラブで知りあったA子さん(当時19歳)をリーダーの竜のマンションの一室に連れこんで乱暴し、全治二週間の傷をおわせたというもので、A子さんからはさる一月に医師の診断書をそえて親権者からの告訴申し立てがなされていたが、そののち示談が成立したとしてとりさげられていた。しかし同署では五人の手口がきわめて悪質であること、示談成立の段階で脅喝が用いられたと見られること、このほかにも同様の余罪がかなりあるものと見なされることなどから、逮捕に踏みきる方針を固めたもので、同時にメンバーの一人である木田道男の伯父である大友菊治(暴力団大友組組長)宅、同事務所、マカベプロダクションの一部など四カ所を強制捜査を行なった。当局上層部ではこの事件を重視し、こうした悪質な手口の被害者はほかにもいるものと見て調査している」 「熱心だね」  深みのある声で突然話しかけられて、良はとびあがって新聞を隠そうとした。前に立って見おろしている結城修二を見たとき、良の頬から血の気がひいた。 「何か面白いことでものってるの」 「いえ──別に」  良はこの男が苦手である。その悠揚せまらぬ自信たっぷりな態度と、堂々たる美貌と、こちらを見すかしているような微笑にあうと、かっと反撥を感じる。しかし、いま良の頬から血の気がうせたのは、反感のためばかりではなかった。 「連中も可哀そうにね」  結城は目に笑いを含んで良を見ながら云った。いかにも、可愛いという目なのに、良はびくっとして、いったい何か知っているのだろうかと白く光る目でせいいっぱいはねかえすようににらみかえしていた。 「これだけ破廉恥罪じゃあもうおしまいだ。栄光転落──ねえ、良くんだってご縁がないわけじゃなし、いつか一緒に巡業したんだったね──まあ、傲れるもの久しからずってことだな」  良はますますぎくりとした。目の中にいつのまにか怯えがちらついている。結城は美しく手入れした口髭を撫でて、そんな良をなだめるように笑った。 「かれらはいま沖縄公演を済まして、明日帰ってくるはずだよ。そこで、東京駅──だか羽田だかで逮捕だ。すごい、劇的情景だねえ。マスコミは大よろこびだ。だがねえ、マスター」  そしらぬ顔でマスターにほこさきを転ずる。 「この話、なんだか妙だと思わんかね」 「ブラッドでしょう。いやあ、面白いけど、妙な話ですねえ。なんでまた一年も前のことほじくり出して──第一そんな診断書なんて、そんなあとから見てわかるんですかねえ。お客さんもよくこの話していきましたがね、今日は。でもたいていみんな、でっちあげじゃねえのか……って。もっともそれだけのことはしてるんだろうってことは皆さん一致して云ってましたがね」 「無茶な連中だったからな。粗野で、正直で、荒っぽくて──だが、エネルギッシュで、パワフルで、僕は嫌いじゃなかったし、実にいいサウンドを作るんだが──ちょっと残念だね」  良はいよいよ不安になってきて、新聞をたたんだ。結城は連れが向うのボックスで待っている。きれいな理知的な感じの女だ。新劇の千田麗子だった。  連れをおいて、わざわざこんなことを云いに来たのは、ぼくにあてこすりに来たんだろうか、知ってるぞ、と云ってるのだろうか、と思う。そのとき佐伯がドアを押して入ってきて、良はほっとした。結城がそれをじろりと見た。 「おっと──今日んところは真ちゃんのおしゃべりに付合うのはごめんだな。じゃ良くん、またな──滝さんに、僕からよろしくと云っといてくれ。実際、あの人は大した人だね」  また気になることを云って、すらりとはなれてゆく。良は唇をぎゅっとかみしめた。 「あ、ごめんね、おそくなって」  若い美男の俳優は絹のようになめらかな声を出した。 「待ったろう」 「いいえ……」 「どういう風の吹きまわしですかね、佐伯さん」  マスターが心安だてにからかった。 「恋敵とランデヴー?」 「ばか云ってら」  佐伯の態度はよく云えば世馴れて愛嬌がある。わるく云えば、我慢がならないほど、馴れ馴れしくてすれっからしだ。 「ぼかあね、この子可愛くって仕様がないんだぜ。マスコミには宣伝にもなるから勝手にギャーギャー云わしとくけどさ、まあー、云ってみりゃ、この子はぼくの弟で、おばちゃまの息子みたいなもんよ」 「そりゃ白井先生が可哀そうだ」 「だってそうじゃないの──今日だって、石田女史のお誕生パーティーで、内輪でバーベキューやろうって云ってんだ。ねえ、良ちゃん」 「結城先生は? いらっしゃらないんですかね」  マスターが顎をしゃくった方をちらりと見て、あわてて佐伯は目をそらした。 「内証だけどさあ、おれどうもあの人にがてでさ」 「なんでまた。あんな立派な人を」 「そこよ、そこ。なんかこう人をばかにしてるみたいでさ。あの髭といい、なりといい、さ、なんての──ご立派すぎちゃって、こちとらみてえな若造は相手にしていただけないや」  佐伯は、結城の侮蔑を感じとっているらしい。良は佐伯ののっぺりした顔を横目で見た。  結城に巧妙に装った初心さの媚を見すかされて以来、彼に激しい反感を持っている良だが、目の前のいかにも要領のいい、小ぎれいな愛玩犬を思わせる青年を内心ばかにしているので、佐伯と共鳴して結城の悪口を云うよりは、結城に、佐伯あたりと一緒くたにしてさげすまれるのは不快だという気持の方が強かった。 「じゃ行こうよ良ちゃん」 「じゃあ、今日は『みゆき御殿』?」  マスターがきいた。佐伯は片目をつぶって、軽薄な口調で云った。 「これはここだけの話だぜ。またマスコミがかぎつけるとうるさいもんなあ。いやんなっちゃうよまったく、勝手なこと云うったら──おれなんか馴れっこだからいいけど、良ちゃんなんかうぶだから可哀そうでさあ」  その実、ほとんど実際の仕事をしないで「みゆき御殿」に入りびたっている程度のタレントである佐伯は、女性週刊誌にそうして名前が出ることで知られているので、彼のネーム・ヴァリューは白井みゆきなり、今西良なりという名にくらべていわば付け足し程度でしかないのである。  婚約したためにパトロンの城戸洋典の逆鱗にふれてからは、婚約破棄、ホステスとの同棲、白井みゆきとの関係とスキャンダルでかろうじて名をつないできた。もともと容色をかわれたのだったから、およそ気の毒なくらい、演技力はないし、城戸洋典の権力は強大だからあえて使おうというところもない。  だが本人はどこまでそんな自分の惨めさや卑しさに気づいているのか、いつもへらへらとしていて、ホスト・クラブのホストを思わせた。良はいやな気がして佐伯のととのった横顔をうかがい見たが、佐伯が笑いながらふりむいたのであわててしおらしい顔をした。 「お待たせしちゃわるいですから」 「ほら、ね、このとおりでしょ、マスター。こんなコって珍しいよね、真面目で純情でさ──ねえ、可愛いよ」 「ほんとに、ジョニーはいい子だよね」  マスターが目を細くして良を見た。 「いつまでも、そういう素直なはにかみ屋さんでいてほしいよ。芸能界なんて、あっというまによってたかってすれっからしにしちまうんだから」 「大丈夫さァ、このコは怖い滝さんてひとがついてるんだもん」  いくぶん頬を赤らめている良の肩に馴れ馴れしく手をかけて佐伯が云った。 「じゃ、また来らあ。内証にしてくれよな、おばちゃまンとこへ行くの。またいたくもねえ腹さぐられんの真平だ」  内証にしてほしい声ではなかった。佐伯の方はむしろ盛大に書き立てさせたいのだ。  マスターがわかってるというようにうなずいた。押されるようにして店を出ようとして、ふと良はふりかえり、素早いまなざしを奥のボックスの結城とその連れの方に投げた。  佐伯の大声は最初から最後までせまい店じゅうにひびきわたっている。結城がまたあの冷やかな、嘲弄のまなざしでふたりを見送っているのを見ればまた腹を立てるくせに、一種の苛立たしい自虐からたしかめようとしたのだ。ところが、良の期待は裏切られた。  結城は長い脚を組み、その上に肘をついて身を乗りだすようにして、連れの女優との話に没頭している。佐伯と良になど何の興味もない顔だ。  目が輝き、髭にふちどられた口もとが愉快そうにほころび、指にはさんだ煙草の灰が長くなっていた。低いが明晰な声がふと良の耳に入った。 「だから僕の考えていることは大体各方面にも通じることなんだね。千田さんの場合なら演劇的空間の基本的な再編成、たとえば溝口さんなら、まあ発声法を根本的に検討しなおすことによって音楽という概念を確認する、僕はこういう動きは統合し得るものだと考えている。ロック・ムーヴメントってものに興味があるのもそれなんだ。つまり芸能というかすべての商業化された身体表現そのものの転回点──」  青年のように熱っぽい声がつづいている。ふいに良は、激しい屈辱を感じた。なんだ、無視しやがって、偉そうに、といきなり肩でつきのけるようにしてドアを押す。 (自分のこと、何様のつもりなんだ、あいつは)  結城の蔑視よりもいっそう彼の関心の埒外にあることが良のプライドを傷つけた。むかむかしながら、良は佐伯のドアをあけてくれた車の助手席に乗りこんだ。みゆきの車の一台を、佐伯は自分のものとして乗りまわしているのである。何か甘ったるいことを云いながら佐伯が車を出したが、良は気にもとめていなかった。  良の思いは苛立たしく結城修二のまわりをさまよっていたのだ。  滝がきかせてくれた結城の経歴を思いうかべる。三島コンツェルンの、結城重工業の結城大作の御曹子で、K大法学部卒業、学生時代に遊び半分にやっていたジャズ・ピアノで認められかけたが、プレーヤーとしてより、作曲に才能があると知って演奏家の道を断念した。  ようやく四十になるやならずで、もうポップス系の作曲家としてナンバーワンと衆目の一致するところになっている。都会的なセンスとジャズ・シーン、ロック・シーンに詳しいことで特異な存在で、陰湿な日本の歌謡曲の世界に新生面をひらいた。  その手になった曲が、例年のイヴェントのポップス大賞にノミネートされないということはなく、書けばヒットと云われるくせに、このごろしだいに歌謡界に背をむけて、ニューロック、ニュージャズの新しい動きに注目しているという。  趣味はヨットと車と本職はだしの楽器いじり全般、武蔵野の方に立派なスタジオに居室をくっつけたのを建てて、親の大邸宅にはほとんど帰らずに音楽にひたっている優雅な生活だという。  それは良にとって──おそらく、誰にとっても、まるきり別世界の、選ばれた、恵まれすぎた現代の貴族のお伽話にすぎなかった。再び良はかっと頭に血がのぼり、自分が世にもみじめな虫けらだ、という思いにさいなまれた。 (あんなやつ──)  死んじまえばいい、と灼けつくような恥のいたみを怒りにすりかえて罵る。そんな恵まれた男が、白井みゆきにとり入ろうとする自分の性根を見ぬいてからかうような皮肉な目を投げ、一瞥の価値もない虫の類のように無視した、と考えると頬がかっと燃える。滝が、結城のこととなると妙に心を寄せて、好意的なのさえ腹立たしい。 (滝さんなんか、わかってないんだ。あんないやな奴ありゃしない)  ようやく、ひとの関心と崇拝と讃美に馴れ、その甘さを当然のものと考えはじめ、自分の力をうっとりと意識しはじめている良にとって、結城の無関心はいたたまれぬほどの羞恥と憤怒をひき起した。 「どうしたの、ばかに静かだねえ」  佐伯が冷やかすような声をかけたとき、良はようやく佐伯の存在を思いだして驚いた。  車は、光の渦が夜光虫の群れのように流れてゆく都心をはなれて、西へ走っている。良は佐伯の視線がさっきから考えこんでいる自分の横顔にちらちらと注がれていたらしいことにはじめて気がついた。  何か、気がついたろうか、とたかをくくってはいたがちょっと気にして、鋭く隣りの青年を見あげる。 「どうしたってのさ──さっきから、おとなしいねえ。おれが、こわいの?」 「いいえ」  良はいくぶん怒って云った。 「どうしてですか」  佐伯はにやにやしている。そういうことか、と良は考え、投げやりな気持でバックシートに身をもたせた。 「考えてみると、良ちゃんとふたりっきりでドライブなんて、はじめてだなあ」  佐伯は、良の沈黙を、不安か気おくれと受け取ったらしかった。ふだんから、何かというとこの少年の初心さや生真面目さをいくぶん陰険にからかって苛めるのを楽しんでいるつもりらしい彼である。良はどうしようかと考えながら黙っていた。 「いつも、婆さん連と|こみ《ヽヽ》ばっかりでさ──いっぺん、ふたりで話してみたくって、チャンスを待ってたんだよ」  佐伯はなおも悦に入ってことばをついだ。 「さて、つかまえたぞってわけ」 「佐伯さんは」  良はナイーブで一途だが中に激しい気性のある少年、というのがこの際いちばんいいだろうと思った。面倒くさくなったら佐伯をつきとばして逃げ出してもそれなら悪感情を持たれまい。 「ぼくのことを嫌いなんですね」 「え?」  佐伯はほんとうに驚いたような顔をした。 「なんで?」 「もし、ぼくが白井先生に──あの、よくしていただくのが、──おいやでしたらはっきりおっしゃって下さい。ぼく、佐伯さんにわるく思われたくないんです」 「おやおや」  佐伯が声を立てて笑った。 「けっこう、きみって、はっきりしてんだねえ。マネがいなけりゃ、ろくに口もきけないカッペちゃんかと思ってたけど……おれに、何だって? 誤解してんだよ、ジョニーは。おれ、そんなこと云ってんじゃないよ」 「でも」  良は一途らしく云いはった。 「ぼくは、気持よくないんです。ぼくも、いずれ佐伯さんに誤解をときたくて──ぼくあんな週刊誌の書くようなこと──」 「あったりまえじゃないか、あんな婆さんに」  佐伯はいよいよ本性をむき出してきた。バック・ミラーでそっと佐伯を見て、卑しい笑い方だ、と良は思った。 「誤解してんのは、きみだよ。おれたちは、あんなこと、いい宣伝としか思っちゃいないよ。もっとも、婆さんほんとにきみにいかれかけてるみたいだけどなあ。ジョニーはきれいすぎて手をふれられない、汚しちゃいそうでなんて云ってたよ。ほんとんとこは、きみに迫ったりしたら嫌われるってわかってんのさ。男を食って生きてきたんだもんなあ、口がおごってんだよ。ゆるゆる釣りあげようって肚だ」  良は肝を抜かれたような表情を作って佐伯を見つめた。佐伯はそれを見、派手に笑いだし、ギヤから手をはなして良の肩を抱きよせた。良はびくりとしたが、それは必ずしも芝居でもなかった。 「おれのこと、ひどい奴だと思ってる顔だね。まったく、ジョニーって可愛いよ」  佐伯は農大前のバス停をまっすぐ成城の方へ抜けてゆくかわりに、左折した。馬事公苑の暗がりである。 「佐伯さん」  良は驚いたような声を立てた。佐伯は車を真暗な公園道に乗りいれ、とめた。 「どうしたんですか」  良は少し不安になってきて、かさねてきいた。ふいに佐伯の唇がおおいかぶさってきた。良はあっと声をあげて、その頭を押しのけようとした。  恐ろしく、淫らな技術に長じた接吻だった。彼を、その美貌をめでて売り出した老監督、ペットがわりに飼っている大歌手たちに心ゆくまで仕込まれ、それをなりわいとして生きているジゴロの技術である。良は喘ぎ、本気で狼狽しきってもがいた。佐伯が手をのばしてバックシートを倒したので、ふたりはもつれあったまま倒れこんだ。 「──やめて下さい」  良はかろうじて佐伯を押しのけて喘いだ。佐伯が快感をくすぐられたように咽喉で笑った。 「もうあんな婆さんとこに連れて行くのなんかよしたよ。ほんと云うと──はじめっから、そんなつもりはなかったんだよ」 「白井先生がお待ちになってるから──」 「待ってやしないよ。婆さん、今朝はずせない用ができて明日にしようっていうから、おれからきみに伝えとくって云ったのさ」 「ぼくを──欺したんですか」 「人ぎきのわるいことを云いなさんな」  また佐伯の唇が咽喉から顔へ這いあがって来、巧妙な指がボタンをはずしにかかる。良は軟体動物にのしかかられているような気がして身もだえした。 「ねえ──きみなんか考えたこともないくらい、いい気持にさしてやるからさ」 「やめて──佐伯さん」 「こうしたかったんだよはじめっから──ああ、いい子だ──おれに恥をかかすんじゃないよ」  佐伯は山下と良のことを知らないのか、それとも知らぬふりをしているのか、どちらだろうと良は考えていた。  山下国夫は連日良につきまとっているし、舞台裏では山下が良を溺愛しているというのは衆知の事実だ。ほんとうに知らなくて良を初心で無垢な獲物と思っているのか、そう考えることが彼の快感をかきたてるのでそう思っているふりをしているのか、山下に都合がわるいので知らぬということにしておくのが上策だと思っているのか。  白井みゆきだってそうだ。彼女の目の前の、彼女の心に快く媚びる、はにかみ屋でナイーブな少年と、山下のような男を惑溺させ手玉にとっている良とを、どうにかして、彼女は完全に切りはなして、自分に快い良の像だけを見ている。  この連中はどこか異常なんだ、と良は思った。ちがう人種なのだ、と感ずる。この連中を見ていると、何を、誰を信じていいのかまるでわからなくなる。  何を信じていいかわからぬなら、何ひとつ信じないでおく方が手っとり早いし確実だ、と考えながら、良は弱々しく身もだえしていた。ひそかに男の快感に媚びているような抵抗である。 「可愛いよ──な、おれだって、たまにはいい思いがしたいじゃないの──ぶよぶよした皺だらけの婆さんを毎晩毎晩してやってさ──おまけにこっちが参っちまうくらい好きときてんだから。たまには──口直しをしたいや。きみはすてきだよ──最初に見たときっから、こうしてやりたくて……」 「佐伯さん……」 「ねえきみだって、おれに借りがないわけじゃないだろう。あんなに、おれをとんだ三枚目にしてさ、宣伝になったじゃないか──三角関係の、おれから婆さんをとったのって。第一きみのことを、おれ婆さんに何か云うことだってできるんだぜ──まだあいつおれのこと信じてるからね。だけどおれだって、それよりは、きみみたいな子を可愛がってやった方が楽しいや。おれは、うまいんだぜ……」  良は佐伯の囁きにかすかに首をふりつづけながら、力尽きたようにからだの力を抜いた。佐伯が、巧みな愛撫を唇と手でからだじゅうに這わせてくる。良は低い呻き声をあげてまた身をもがいた。 「きみとおれだけの秘密だよ……」  佐伯は良のからだを押さえつけた。そっとからだをすすめようとする。 「やめて──それはやめて──」  良はふいに恐怖にとらわれて佐伯をはねのけようとした。 「僕──だめなんです……」 「どうしてさ──よくしてやるよ……どうしたの、震えてるじゃないか」  ふいにゲームの均衡がくずれて、良がほんとうに怯えはじめたのを、佐伯はいぶかしんでいた。良は全身を固くこわばらせ、喘いでいた。 「何でもするから──それだけは……」 「ふーん」  佐伯は良をまさぐっていた。 「なるほど──これじゃね──誰かにひどい目にあったのか。それとも、誰かが嫉くの?──いいよ、こわがるなよ、おれはやさしいんだ。いやがることなんかしやしないよ。きみに嫌われるのは、いやだものね……じゃ、いたい目にあわさなきゃ、何でもきくか?」  良は急いでうなずいた。 「これいっぺんきりでなくだよ? 協定を結ぼうじゃないか──お互いに、お互いの不利益になるようなことはよそうや──マスコミにはさんざん書き立てさせてやって、婆さんをいい気持にしてやってさ──その裏で、おれときみはほんとの|仲よし《ヽヽヽ》でいようぜ。きみに、いろんなことを教えてやるからさ──きみは、可愛いよ。あんな婆さんなんか、どうだってかまやしないよ。ね──こうしてくれよ」  佐伯の手がしっかりと良の手を握って押しつけていた。どうせ、何がどうだってかまやしないんだ、とふっと良は思った。男の唇が耳朶に熱くかぶさってくる。 「もしよかったら、あんな婆さん──良ちゃんにゆずってやったっていいんだよ。なんか──いい話でもあったらだけど……ねえ、滝俊介ってすごく顔ひろいんだろ? それにきみの云うこと何でもきいてくれるんだろう」  呼吸を荒らげながら囁き、佐伯は良の耳朶をかるく、それから良が声を立てるくらい強くかんだ。 「なあ、そのぐらいの義理はあると思うんだけどな。大体あの記事の火付けはあの人なんだからね。あんだけ、宣伝しといて、十万や二十万でごまかされちゃ、かなわねえや──テレビ番組のレギュラー一本ぐらい、まわして貰わなくちゃ。婆さんがきみにいかれちまったら、おれはもとも子もないんだもんな──まあ、婆さんだってわかってるから、そうするとは思わないけどさ……あ……そうだよ、もっと強くして──ね、こうしてくれよ……」  佐伯は良の頭を押さえて下腹部へ持っていこうとした。良は頭をふって拒んだ。 「頼むからさ──ああ、いい子だな。な、お互いにいろいろと助けあうって約束しようぜ。ああ、いいよ、ジョニー──こんな顔して、わるい子だぞ、きみは」  佐伯は良の髪をつかみ、かすかな声をあげてからだをのけぞらせ、それから少しぐったりして良を抱き寄せた。 「ときどき、おれと付合えよな」  ずるそうに囁く。 「いろいろ、仕込んでやるよ。きみは、まだ子供なんだな。そんなことじゃ、この世界渡っていけないぜ──きみにレッスンしてやるよ。友達だもんな──おれのこと、嫌いになったか?」  良はかすかにかぶりをふり、それから羞恥にたえないように佐伯の胸に顔を埋めた。 「可愛い子だ──」  佐伯は良の髪をまさぐっている。 「おれの思ったとおりだな。きみは、素質があるよ、男にこんなことされるの、嫌いじゃないんだろう?」  良は顔を伏せたまま、内心ではぺろりと舌を出していた。ほんとうは糞くらえとでも云ってやりたいところだ。だが、良は、自分をいつわり、ひとが自分のよそおったとおりにふりまわされて右往左往したり、自分を手に入れたつもりで悦に入ったりするさまを眺めて面白がる快感がやめられなくなっていた。  相手に思ったとおりに動かしている、あやつっている、と考えておかせて、ほんとうはこちらがあやつり、見すかしている、と思うとたまらなく滑稽で、自分の優越が感じられて、くすぐられるような満足感がこみあげてくる。  せっかく、初心ですれていないように思わせておいたのに、わるい子だと云われたときは、見すかされたかと思ったが、そうではなく、佐伯が良を陥落させ、堕落させる快感を味わっているのだと知ると、おかしくてたまらなくなった。  佐伯から見えない、闇の中の、彼の胸で、良の目はきらきらと輝きはじめ、猫のような生き生きした嘲笑がこみあげてきた。そんなとき、自分がどんなになまめかしくなるか、良は知っている。暗いのは残念だ、と思い、滝が見たら、と思った。 「婆さんには、内証だよ……」  山下を相手にしていて面白いのは、彼の惑溺ぶりに自らの力の意識をあおられるのと、何でもねだりさえすれば買ってくれるからである。清をからかってみるのは、その少し危険を予感させる反応のスリルが面白くてやめられない。  佐伯の場合に、良を楽しませるのは、佐伯のいかにも無恥な卑劣さであった。佐伯が卑劣で汚らわしければ汚らわしいほど、良は下水管を眺めるような好奇心と興味にとらえられた。良は、自分のなかにいつのまにか生まれている魔性の生き物が、あっというまに、危険なまでにはびこり、途方もなく発展して良自身をむしばんでいこうとしていることに気がついていなかった。  佐伯の唇が、どこかおずおずとした応え方が快くてならないように再び唇を這いさがして来、ぬめぬめした舌が歯を割ってくる。それはみだらな蛞蝓のように熱く口の中を這いまわった。そのそれ自体ひとつの淫獣のような舌を、かみきってやったら面白かろう、という悪魔的な想念がおとなしく抱かれている少年の心をかすめた。 (みんな、なんて正直で、人を疑わないんだろうな)  良の中で、小鬼のように嘲弄し、笑っているものがある。たかをくくった、舐めきった、残忍で意地のわるい小悪魔がむっくりと首をもたげている。  だがそれをつつき出し、いじくりまわし、刺激して、眠っていたその魔物を呼びさましてしまったのは、この少年を犯し、はずかしめ、愛撫し、ちやほやし、欲望にさらし、舐めまわし、弄んだ大人たちである。かれらはその代価を払わねばならないのだった。  翌日の朝である。  良は久々にゆっくりできる快さに朝寝坊をした。日曜で、午後からレッスンと、夜の歌番組がひとつあるだけである。目をさますと白い昼で、コーヒーの匂いが香ばしかった。滝がもう起き出たらしい、となりの、メイクの済んだベッドをまぶしそうに眺め、怠惰に足をのばした。居間の方からかたいタッチのジャズ・ピアノのソロがきこえてくる。 (またレコードかけてるのか)  良はのろのろとベッドをすべりおり、パジャマのままドアから首を出した。もうすっかり髭もそり、服を着て、何か書きこみをした紙をひろげながらコーヒー・カップを手にしていた滝がふりむいた。  灰皿におきはなしのタバコの煙が天井へ立ちのぼって渦を巻いている。滝のあいた方の手がかるく食卓を叩いてレコードにあわせて拍子をとっていたのがいくぶん照れたようにとまって、彼は微笑した。 「おはよ──早いんだね」 「もう昼だぞ。お前がおそいんだ」 「だってさ……」 「だってじゃない。またゆうべも遊んできたろう」 「遊んでったって──付合いだもん。滝さんだってずいぶんおそかったんじゃないか。このごろ、たまにしか顔見ないのに、ぼくの顔見さえすりゃ文句云ってばっかりだ」  不平を云いながら、何となく良の表情は甘えている。それは、意識的に作る媚ではなくて、拗ねた我儘な子供の表情の中に自然にあらわれてくる、からだごともたれかかり、そうしてもしっかり受けとめてくれると知っている甘えである。 「文句云われるような生活をしてなきゃいいのさ」 「だって仕様がないじゃん」 「よく口答えする奴だな。早く顔洗ってこい。コーヒーいれといてやるから」 「滝さん今日何時に出かけるの」 「一緒に行くよ。佐野さんと話があるし、それにきょう『ガラスの天使』のカラオケどりだろ」 「一緒?」  良は顔を輝かせた。 「顔洗ってくる」  少し大きめのパジャマにつつんだからだをひるがえして洗面所へとんでゆくのを、滝は何か奇妙にゆがんだ表情で見送り、少し考え、それから机の上に出しはなしにしてあったレコードのジャケットをそっとどけた。その下に、折り畳んだ朝刊があった。隠すようにしてあったのである。滝は肩をすくめ、コーヒーをいれにかかった。  良の方は、念入りに歯をみがき、顔を洗い、鏡の中で寝足りた肌の色の冴えているのをたしかめながら、嬉しさと当惑の入りまじった思いをめぐらしていた。 (滝さん一緒に来て──山下の奴きのうはどうしたんだなんてはじめたらどうしよう。奴と一緒って云ってあるんだもんな──畜生、やばいなあ)  好きなチェックのシャツにジーンズをはき、──良は半袖のシャツが嫌いで、夏の最中でも長袖の袖を折って着ていた──だいぶのびてきた髪を気にしてかきあげながら食卓に戻って来ると、滝の鋭い目がちらりとその姿を見た。 「トースト焼くか?」 「うん。ミルクとって」  やたらにコーヒーをかきまわしながら、朝刊には気づかずに、滝をうかがうように見て、いくぶんひっかかる調子で、しかしせきこんで思い出した大事件のことを云い出した。 「ね、滝さん、あいつらつかまるんだね。今日東京に戻ったら逮捕なんだって? きのう──」  あわててことばを呑んだのは、それを教えてくれたのが結城修二で、それを云うと山下とでなく佐伯と会ったとばれてしまうのに気づいたからである。うろたえてごまかした。 「でもぼく心配だよ──ねえ、もしかしてぼくのことなんか云っちまいやしない? 滝さんがやったんだって気がついて仕かえしに──そしたら、そ──そんなこと……知られたら、ぼく死んじゃうよ……我慢できないよ。心配だ、ぼく──」  滝は良を見、ゆっくりと新しい煙草に火をつけた。いつもよりもさらに底の知れない、穏やかで心中をうかがえない表情をしている。煙を吐き出して、朝刊に顎をしゃくった。  いぶかしげに、良は新聞をひろげて、社会面に目を落し、そして鋭く息を呑んだ。瞬時にからだじゅうの血が音を立ててひいた。 「送検の人気グループ『ブラッド』、東名高速で大事故──一人死亡、三人重軽傷」  とある。 「滝さん!」  良は何を云っているのかもわからずに叫んだ。手がわなわなと震え出した。トップに、黒眼鏡の竜新吾の皮肉な笑いをうかべた顔がのっている。 「──リーダー、竜新吾(27)が首の骨を折って即死、大木健一(26)が全身打撲、腰つい骨折などで重体、金森裕(27)、佐久間茂(23)がそれぞれ二週間のけがをした。木田道男(25)は後部中央にいてかすり傷だけで済んだ。所轄署の調べでは原因は運転していた竜のスピードの出しすぎと前方不注意で──なお竜以下の五人は、婦女暴行致傷容疑で二十日午後までには逮捕の運びとなることが決まっていた」 「心配する必要はないんだ。わかったかね」  滝は穏やかに云い、狐色に焼けたトーストをとりだしてバターをぬってやった。 「コーヒーがさめるよ」 「た──滝さんが……」  良はあとずさりし、怪物を見るような目で滝を見た。咽喉が苦しいように手で首をつかんでかすれた声を出す。 「滝さんが殺したんだ!」 「何をばかなことを云ってる」  滝は苦笑した。 「滝さんが殺したんだよ! ぼくじゃないよ! ぼ──ぼく知らないよ」 「いいかげんにしろよ」  滝はトーストを押しやった。 「だって──だってやつら捕まるのいやで自殺したんだ! そうに決まってるよ……で告訴さしたの滝さんじゃない──でっちあげて──ぼくのことの落し前をつけるのにさ。なら、やっぱり滝さんが手を下したのと同じことじゃないか──殺すなんて──殺さなくったって……」 「ばか野郎、めったなことをあてずっぽで云うな」  滝は苦笑を消さなかった。 「殴られたいのか」 「だ──だって!」  良はたちまち怯えて逃げるかまえをしながらわめいた。 「いいか、仕様のない奴だな──竜新吾はな、なかなかどうしてこのくらいで参る玉じゃないぞ。きのう、このことが発表されてすぐ地元の記者が特ネタ抜きのインタビューに成功した。『ライト』誌の野々村さんが教えてくれたが、そのとき奴らは、逃げるもんか、これはでっちあげだ、明日いちばんで東京に帰って、出るところに出て決着をつける、あの女はおれたちの誰とでもいいから寝たいとつきまとってたスケベ女だ、怪我させたなんてどの面さげて云うのか目の前で見てやる、どうせ金めあてだって大変な意気ごみだったそうだ。他にもいるんではって話には、みんなよろこんでる、いやがる奴をやるほど不自由しちゃいないし、おれたちをおとしいれようとする奴らと徹底的に戦ってやるという鼻息だったとさ。ええ、良、云いぐさがいいと思わんか」 「じゃ──で──そ、それで警戒して……」 「おれはマフィアのボスでもCIAでもないぞ」  滝はにやにや笑った。 「お前はどう思ってるかしらんが、おれはワルじゃない。玉をかませる、金でつらをはたく、やくざの力をかりる、でっちあげにマスコミ工作、こんなことは単なるこの世界の常識だ。おれをしぶといの、悪党の、汚ないのという奴らはな、良、おれの打つ手が決まるから──連中とちがっておれはムダ弾を射たんからわるく云うんだよ。おれだけがしてることじゃない。現にマカベプロのお前をつぶそうとした手口をみろよ。ただ、おれは成功するんでねたまれるだけだよ。人を殺すの、殺されるの、そんな真似をするほどばかだと思うか、このおれが」 「滝さんは利口だよ」  良はゆえ知らぬ戦慄と興奮に我を忘れていた。 「利口すぎるんだよ。あんたは、奴らの気性も知ってたし、タイミングもはかってたんだ。で、なかったら、こんなことになりゃしなかった──ぼくはこわいよ。あなたはぼくをどうするつもりなの! ぼくは人殺しの片棒かつぐのなんかいやだ──ぼくをどうしちまうの! 悪党! 人殺し──」 「うるさい奴だな」  滝は腹を立てて立ちあがり、すくみあがった良を大股に壁へ追いつめ、その顎を力まかせにつかみ、左手で手首を握って押しつけてのぞきこんだ。鋼鉄のきらめきが、目にひそんでいた。 「いいか、おれは関係ないんだ、ばかなつまらんことを云うのは、やめろ。お前がそんなくだらん奴だとは思わなかったぞ。おれは、何ひとつやましいところはない。お前だってそうだ。わるい奴らに天罰が当ったのをよろこんでろ。大木健一は二度と歩けんそうだ。もとはといえば、奴らがお前にひどいことをしたんじゃないか。もう忘れちまったのか? 奴らが何をしたか、思い出させてやろうか? ええ?」 「い──いやだ! さわらないで、こわい!」  良は喘いだ。竜新吾の鋭い若い顔、そのむごたらしい凌辱、次々と、血まみれになって声も出ない良の上にのしかかってきた若い狼たちの、汗と昂奮に光った形相が目によみがえってくる。  それ以来良をつかんでしまった恐怖はいまだに心の最も深いところから去らず、それから幾度あの凄惨な記憶の悪夢におそわれて悲鳴をあげてとび起きたかわからない。  しかし、たけだけしく自分のからだに欲望を打ちこみ、血を流させ、死ぬような思いをさせたその黒衣の若者たちが、或は冷たくなり、首がねじまがってよこたわり、或は廃人になって再起しえず、無事だったものもいずれ牢につながれる身だと考えるのはその恐怖よりさえ恐ろしかった。  そんな酷い運命をかれらに見舞ったみなもとが自分であると思うと、かれらのすさまじい呪詛が幽鬼の妄執となって自分をおそってきそうな戦慄にかられるのだ。 「何を怯えてるんだ、ばか」  滝は舌打ちして良の頬を叩いた。良は滝にしがみついた。 「僕じゃないんだ。滝さんがしたんだ──ぼくは、何も知らないよ……いやだ──」 「そうだ、おれがしたんだよ、良」  滝は良の心を読み、苦く笑って良の頬をつかんで揺ぶった。 「連中が復讐するならおれにするさ。それで、安心したか、ええ? 困った奴だな。所詮、ガキだな」  良は滝の広い胸に身を投げこんで、ようやく少し安心した。そうだ、自分のせいじゃない、と考える。その顔を見つめ、滝は憎さといとしさのいりまじった表情で、押さえつけた少年のとがった顎を力をいれてしめつけた。 「これで──次の仕事ができたってもんだな、良」  意味のわからぬことを呟いて、口もとだけで笑う。 「こんなことは忘れろ。おれにまかしとけよ。──そのうちでいいが……関口洪作──例のおもてむき作詞家、実は芸能界の黒幕だな、奴の家へ行くんだ。まだあと二、三人あるが──何故なんてきかんでいいぞ」  良はぎくりとして、恐怖をひそめて滝を見あげる。その目を見、滝は笑って良の髪を複雑な思いをこめて撫でた。 [#改ページ]     12 「どうだい、たいそうな景気らしいね」 「いえ、もう、どうも私どもなんかは、単なる仕出し屋みたいなものですんで──すっかりあれですから、マルスさんの方のお力ですから」  違い棚に象嵌の菊がういて、床の間の軸も目のあるものが見ればよだれの出るようななにがしの筆なのだろう。大層な座敷に、出された座布団も敷かずに滝は下座にかしこまっていた。  床の間を背負っている、高そうな平結城のがっしりした老人は、関口洪作である。作詞家、小説家、演出家、戯曲作家、脚本家、プロデュースに≪呼び屋≫と恐ろしくたくさんの肩書を持っている男だ。だが本業は斡旋全般というところだろう。  右翼の大立者たち、及び組織暴力すべてのトップに顔がきき、政界との関係もある。もめごとの調停、話のまとめ役、すべて話がこみいってくるとこの男が顔を出してくることになっている。斡旋料はとてつもなく高くつくから、ちっぽけなことには目もくれないが、彼に頼めばどんなことでもおさまる、というのは業界衆知の伝説だ。それだけに財力も権力も雪だるま式に増す一方らしい。  何しろ自分で雑誌に連載小説を書いて、それをスポンサーをさがしてドラマ化させ、テレビと舞台両方でやらせ、その主題歌を作詞してそれを新人に歌わせて売り出し、こんどはその歌手をプロダクションに斡旋して恩をきせるという多角経営なんだからな、と滝は考えた。  昔はどうか知らないが、いまや小説、作詞、脚本、すべて代作者がいるという話だし、むろん抱え作曲家に≪関口一家≫というべき人脈に役者がそろっていて、彼はただゆったりかまえていればいやでもけたのちがう金がころがりこむことになっている。  しかし爺さんが、自分で書こうと書くまいと、おれの知ったことか、と滝は考えていた。 「相変らずのご健筆で、先日のもすぐ読ましていただきましたが、たいへん面白うございました。あれも、いずれテレビドラマになさるんでしょうな」 「まあ、話は来とるがね」  黒幕は鷹揚な云い方をした。 「ぜひなさるべきですよ。実にもう、映像向けで、さすがに先生だと思いましたね」 「いずれはね──主演にいい娘がいないか、さがしとるところだよ。いつも、済まんな」  これは、滝の持出した手土産にむかって発したことばである。その箱書つきの桐箱から取り出した黒天目の茶碗を、関口は年のわりにはがっしりして強そうな手にささえてためつすがめつしていた。 「こりゃあ、いいものだ。あんたは、若いのに目があって、立派だよ。先だっても何かをどうこうしてくれとか云って来た奴があったんで会ってみたら、ほんのお近づきのしるしとか云って、博多人形なんかかつぎこみやがってさ。あんなもの、どうするかね、金がさばかりはって、安手でさ。しかもばかでかいと来ている。持って帰れと云ってやったよ」 「こんな結構な品を、私どもみたいなものが持っておりましても、宝の持ちぐされで──先生のご風流は存じあげておりますんで、使ってやっていただければ、品物も生きますから」 「茶の湯だ、風流だって、うるさい年寄りと思うだろうがねえ」  関口は黒いなめらかな茶碗の吸いつくような肌をめでて撫でまわしていた。六十七、八にはなるはずだが、肌はつやつやし、脂ぎって、どうして年寄というのははばかられる。その愛撫の執拗な手つきに滝はふとあらぬ連想をした。 「何も通人ぶってるんじゃないが、この年になるとやはり──プロデューサーだ、タレントだってバタくさい世界を見てるんでなお、日本の心といったものにこだわりたくなるのかもしれんな」  関口は面倒そうに手をふって、滝の云いかけた追従をさえぎった。 「三時に人と会うんでな」  残り惜しそうに茶碗を箱におさめながら云う。 「わしはあんたをずいぶん高くかってるんでね。まあたいていの相談には乗るつもりだが、しかし滝君、あんたいまなにもうちに来るようなことはないんじゃないのかね。それともあれかい、あんたのところのあの坊やが、スキャンダルでも起した──そんな話も、あれば耳に届いてると思うがね」 『裏切りのテーマ』はさすがに夏をこしていくらか勢いがおとろえ、三カ月独走をつづけていたトップの座からベストテン五位まで落ちていたが、九月末発売の『ガラスの天使』も発売十日でもう二十位に顔を出し、あちこちのディスコや有線から流れている。 「初リサイタルの前売りも大変なもんだというし、年末の新人賞なんざ、わしのところになんか来るまでもない、あれ以外にやったら大騒ぎになるというくらいなもんだろ。まあ、マカベさんがあんなことになってがたがたしとるのに、羨ましいようなご身分のはずだろう」 「でもありませんよ、先生」  滝は笑って、つと膝を進めた。 「いつもいつも手前勝手なお話ばかり持ちこんで、面目ないんですが──大袈裟に云うわけじゃございませんが、今度ばかりは私の信用も、生命も、たいしたもんじゃないですが、滝俊介という名前も一切がっさい賭けたお願いがありまして──これはもう、先生以外の方には絶対不可能なことで──例のないことですし、まあこういうことがあっちゃこの業界のしくみってものが根本から崩れてしまいます。それを承知で、この一回とお願いしたのですが」 「あんた」  関口は声の調子を変えなかった。 「まさかあんたの坊やに大賞をくれなんて云うんじゃなかろうね」 「恐れ入ります」  滝の声も穏やかである。関口は首をふった。 「そりゃだめだ。いくら何百万の大ヒットになったかしらんが──」 「二百五十万です、先生」 「二百が三百でも、それがデビュー曲だろう。そのために新人賞ってものがあるんだからね。新人が大賞をとったりしたら、この世界のしきたりも格式も業界のバランスもみんな崩れちまう。云ってみりゃ、大賞ってのは、≪大賞歌手≫っていう王冠をやるもので、キャリアと実力のバランスで決まる。その名がついたら、レコード・ジャケットにも、ショーの紹介にも、ギャラの段階にもそれがつくことになる、むろんどんな番組でもショーでも、もっと古い受賞者がいればあれだが、必ずトリと決まるし、一枚看板になる。こんなことをあんたに云うのは釈迦に説法だが、全国で歌手と名のるもの無慮何万人、それのうち我々つまり業界が歌手として認めるもの二千人、歌でめしの食えるもの二、三百人、その全部の中で大賞歌手は滝君、九人だよ。九人──どれをとっても名実ともに日本芸能界のトップ・クラス、≪対抗歌合戦≫に考えもせずにまず名を書かれる、十年、二十年その座を守ってきた連中だ。だめだね、滝君、そりゃだめだ。ジョニーの最優秀新人賞はもう当確だ。何を好きこのんでわしあたりに借りをつくることがある──こりゃあ、あんただから云うんだよ」 「わかっております。無理と思わなけりゃ、ご相談にはあがりませんよ」  滝は目もとで笑った。 「これまでの九人の受賞歌手の方は、ひとりとして二十五歳以下の方はいないし、芸能生活五年以下のキャリアの人もいない。しかも今年はポップス大賞十周年記念の特別イベントです」 「わかってりゃいい。二百五十万枚なら、たしかにポップス史にのこる超大ヒットだが──」 「三百まであげられますよ、先生、三百万までは」 「まあ歌謡曲の、ポップスのってのは戦後のことだが、そうして体制がととのってからの三十年だけを考えて、ベスト・ヒットはまず『赤いリンゴ』、これは十年たっても売れている超ロング・セラーだから別格として、『ヨッパライ天国』の三百七十万、『城下町の子守唄』の三百万、『バラのかおり』二百八十万──」  関口は云った。 「こういう爆発的ヒットになるのは、たいていデビュー曲とか、それまでパッとしない歌手で──つまりは、できあがったスターはこのへんまで売れるって限界がきまっちまっていて、安定して売れてるかわりに、固定ファン層以外までひきよせるってのはまずむずかしいからね。しかしそのおかげで、業界はこういう、突然変異種には新人賞か、いいところ特別賞をやるってことで処理できる。この賞で格ができるから、そのあとの実績もちゃんとランクづけ済みってことになるからな。破産しかかってたキャメル・レコードを助けてビルをたてさしたって話もあるが、そういうのがあんまりあると、もうすでにきっちりメソードのできあがっている業界はあんまり嬉しくない。云いたかないがジョニーは、もうこの一年にずいぶん異例のって奴をやってるからね、白井君のリサイタルとか、いろいろと。ずいぶん、憎がられてるよ」 「ええ、それも承知の上です。私個人を嫌ってる方も、かなりいらっしゃいますのでね」 「しかしそのあんたにして、そんなことを云うとは、どういうことだね。云うだけムダと知らんあんたでもなかろう」 「しかし、するとどういうことになりますか。情勢の方だけ見れば、今年はうちのを除いてはこれというブームは起っていません。四月からぐんぐん出てきたマカベさんのブラッドがあんなことになって──」 「また堀純一か正木きよしにでもやるだろうさ」 「一人の歌手の連続受賞こそ困りものですよ。前例のない≪別格≫をまつりあげてしまうことになりますからね。それに堀も正木もコンスタントですがこれといったヒットはとばしていませんし」 「そこで早くもお百度詣競争がはじまっとるそうだな」  関口は皮肉を云った。 「ブラッドはとんだことだった。『トレイン』が百万突破すれば、全国ツアーの成功もあるし、疑いのないところだったがね」 「それはどうでしたかね。やはり特別賞ぐらいで済まされたかもしれませんよ。あそこも敵は多いですから」 「あんたのような、ね」 「とんでもない。おからかいになっちゃ困ります」 「しかし、それじゃ万が一ジョニーが大賞でもとったら新人賞をどうする。ポップス賞各賞は歌謡界のオスカーといわれる権威ある賞だ。なまはんかなのにやるわけにはいかんよ」 「大賞がなまはんかな方がもっと困りますよ」 「だめだよ、滝君、第一デビュー一年の、持歌もそうあるじゃなし、リサイタルだってスタンダードを歌ってやるような、それでまだ二十にもなってない子に、いかに大ヒットでも、いかに人気爆発でも、いかに異例の伝説に飾られていても、いきなり大賞歌手を背負わして、そうなりゃ体面も保たにゃならず、あとがつづきませんでしたじゃ大賞の面目にもかかわるし、第一本人があまり可哀そうというもんだよ」 「あとはつづいていますよ。『ガラスの天使』は二十一日発売ですでに十五万をこえていますし、LPを年末に出すことにしていますが、予約だけでもう十万はけています」  滝は辛抱強かった。 「私の口から云うのもあれですが、良はこれまでなかったようなスーパースターの素質があるし、してみせますよ。そしてそういう特別な存在には特別な神話が要ります。ビートルズ、カーペンターズ、ローリング・ストーンズでも、みんな例のないことをやってああなったんです。私はその神話が欲しいし、やるつもりです。これは先生ですからお話ししますんですが、もうおききになったでしょうが今年から、有線、ラジオ、FM、ディスコティックなどが合同で、年間を通じて最もかけられた回数の多かった曲などに賞を出すことに決めまして」 「ディスク大賞だね、きいてるよ」 「あれはもう『裏切りのテーマ』に内定しました。つまり、あれは十一月二十五日発表ですから、ポップス大賞の発表されるときには、良には、第一回ディスク大賞受賞という肩書がついているわけです。ランクでいえば、大賞をとってもそうおかしくはなくなっているわけですよ」 「そのディスク大賞でいいじゃないかね」 「いや、やはり権威がちがいますよ」  滝は声を落し、もう少し近づいた。 「先生、私は、根も葉もないお伽話を云って、何とかしてくれなどとご無理をお願いしているわけじゃないんです。これだけのはなれわざをやらかすのに、綱も用意せずにとびおりるなどということはしません。新人賞はもう決まっています。それは順序としてとらせるつもりです。で、ポップス大賞は、五人─十人の大賞ノミネート歌手のほかに、これは一応形式的にですが、各賞受賞者、新人賞、特別賞、歌唱賞、功労賞の四人もノミネートされたとみなされる、受賞資格が名誉として与えられるわけですね。むろん一回もそれはダブって与えられたことはないですが。私はそれに目をつけてるんです」 「じゃ、新人賞と大賞をかい。滝君、そりゃ、欲がすぎるってものだよ」 「不可能じゃないんですよ」  滝はじれったそうに云った。 「もう話は半分まで進めてあるんです。各界の選考委員が五十名、このうち約三十名はもう話がついてるんですよ」  滝は、何事にも動じぬ関口の手が、このとき灰皿の上で灰を落そうとした煙草を持ったまま、三秒ほど微動もしなかったのをみて心中にやりとした。すぐに関口は灰を叩いて、じろりと滝を見かえした。 「リストはあるかね」 「用意して来ました」  滝はそれをひろげてみせた。関口は口の中でぶつぶつと名をたどっていった。関口自身も、結城修二、杉森省一、上総潤一郎といった有名作曲家、芸術院会員の俳優、音楽評論家、芸能誌の編集長らにまじって名をつらねているリストである。 「なるほど、あんたは野々村さんと親しいんだな。で、ライト系のジャーナリストは彼に頼めるし、このへんの作曲家やバンマスどもは尾崎系かマルス・レコード系で問題はない」  関口の指がくるくるとその紙の上を行き来した。 「このへんは、実弾で動くか、なるほど──九谷、上村、松坂──なるほどね、すると残ったのは扱いにくい連中ばかりだな。それをわしにとこういうわけか」 「無理なお願いをしますからには、それだけの用意はあります」  滝は云った。関口は目を細くして彼を見た。 「中村流三、田代正吾、『スターダム』の小野あたりがなんで動いたんだ。このへんは真壁佐紀の一家みたいなもんで、ブラッドのことがなくたってお宅とは不倶戴天の仇じゃなかったかね」 「そりゃ、誤解ですよ」  滝はうそぶいた。 「みなさん風向きはご存知ですからね」 「わしと君の仲で隠すことはない。やるからには知っておきたいのでね」 「では、ひき受けていただけるわけで?」 「しかたないじゃないか。そこまで打明けさして、おりるわけにもいくまい」  この爺いも風見鶏より風向きをかぎあてるのがうまい、と滝は笑った。要心深く云う。 「そういっていただけば、むろん隠しだてする段じゃございませんが──小野編集長は白井先生の崇拝者でしてね。白井先生にたいそうあの子のことをかっていただいてますので先生からおとりなしいただきました」 「白井みゆきか。なるほど、あの女王様も顔がひろいからな──うまいところに食いこんでいるな、あんたは」 「とんでもない。で中村先生や田代さんは、まあマカベさんにご縁の深い方で、とうてい並ではきいていただけまいと思いましてね。そんな、いってみれば片付け仕事を先生にあれしては失礼と存じまして、いささか──」 「どんな手を使ったね。つつもたせか」  ずけずけと関口は云った。  滝は虫も殺さぬ微笑をうかべて黙っていた。ある写真を彼は握っており、それは実に使いでのある調法なしろものだったが、たとえ関口洪作にでも、そこまでねたをあかす気はない。 「あんたのことだからな──まあ、想像はつくよ。あんたはいい手駒を持っているからな」  関口はリストをにらんで眉を寄せた。 「ふむ──大体わかったが、しかし、これはどうした? あの結城大作のせがれは。奴は白井みゆきともいいし、あんたんとこのタレントの曲も書いている。それに、内輪では、そもそも白井君のリサイタルにお宅の坊やをとりもったのが結城だときいとるがね」 「いやあ、あの方はご自分の法則を曲げない方ですから」  滝はしぶい顔をした。 「正直云って、お顔のひろい方ですから、うまくすれば二人か三人、あちらから口説いていただけるぐらいのつもりでいたんですな。そうしたら、いや、僕はやはりポップスの未来のために、この賞の権威を大切にしたいからと一言のもとにやられまして──ああいう方は困りますな。むろんお金に困るということがないし、お坊ちゃん育ちなんで、欲がおありにならない。それでまああれだけはっきりとご自分の意見を持ってらして、それに──」  滝はひどく顔をしかめた。思いがけぬ齟齬に少しあわてたのがまちがいで、どんなお相手でも、調達するし、何かお困りの事でもありましたらと云ったとたんに、 「滝さん、あんた誤解してるようだね」  ぴしゃりと結城にやられてしまった。 「僕は自分で始末のつけられんようなことはせん主義なんだよ。そりゃあ、別に高潔の士をきどったりはしない、いろいろとわるい事もしてるしひとなみの食指は動くね、金にもセックスにもだね。しかし、食欲もないのに食えと強制されるのは不愉快だな。そのぐらいの自由は大切にしておくよ。それに一度云っておきたかったんだが、あんたがあの手を使うのは何もいまはじめてじゃないが、こんどは少し行きすぎたね、僕が何を云ってるか、わかるだろう。僕はあの連中を高くかってたんでね。そういうわけで、そんな気持になれないんだ。わるいね、良くんにがんばれと云って下さい」  滝はみごとに空ぶりをくらったが、他の連中のように、金、酒、色、あるいは取引や交換条件で釣れなかったといって、有名な彼の奥の手を結城に対して使うのは妙にいやだった。  中村流三にしたように、脱税だの歌手志望の少女から百万近くだまし取っていたのをたねに話をつけたり、田代正吾のように尻尾を出さぬので女を使って写真をとらせたり、というやくざまがいの脅喝の手管は、あまりやりすぎるとかえって窮鼠にかまれるおそれがあるが、そこをうまくあやつっていくのが滝は好きだ。  このでっちあげと脅喝の技術が、供応、賄賂は常識のこの世界でも滝俊介が悪党でとおる所以なのだったが、 (おれは決して悪《わる》くどくしない。一度頼みをきいていただければ、ほんとうにいっぺんで写真はネガごとかえしてやるし、もめごとは示談にしてやる。つまりアフター・ケアつきだ。それはもう業界中に知れているから、おれの手に乗ったのがミスったとみんなさっぱりあきらめて、おれを恨みはしない。つまり、おれは単なる技術としてこの手を使うだけで、ゆすり屋みたいに汚なかあないさ)  彼自身はそう考えている。しかしそれにもかかわらず結城には、そんな彼の思いをぴしっとはじきかえすようなものがある。  それはよかれあしかれ貴族の自恃と呼びたいような何かで、そのために滝は結城に対するとどうしてもしばしば自らを卑しい汚ない小悪党と感じて赤面させられるのだったが、しかしもしかしたらおれが結城修二に好意を持っているのはそのためかもしれない、と彼は考えていた。 「なるほど、そういうわけか」  関口はゆっくりと云った。滝ははっとして我にかえった。関口の指が考え深そうにリストの紙を叩いている。 「まあ、なんとかめどがつくだろう。──むろん、わしの方は、こう考えとるがという以上のことは云えんがね、もちろん──」 「もちろん先生からそのお口添えいただければその後は私どもがはからいますから」  滝はかるく頭をさげた。 「こんなことをお願いしまして、どんなにご迷惑かは、よっく存じております。先生にご承知願えなかったら、いくら私どもがうろたえても、決してどうにもならないことで──」 「まあやってみてのことだ、まだそんなことを云って貰っちゃ困るが、で──」  関口はじろりと滝を見た。  いよいよはじまりだ、と滝は彼の目を見かえした。ここまでは単なる順序の問題で、これから巧みに粘って、値切って、関口のふっかけてくる法外な要求を、どう安くあげるかが滝の腕の見せどころである。  滝としては、なるべくなら、人並以上の好色家の関口に、いいだけ相手を世話してそちらを見かえりにしたい。 (セックスはただと一緒だが、金は回収しなくちゃならんからな)  それが滝の考え方だ。実のところ、良をさしだすのはすでに話がついている。 「あれは、いい子だな、久々にあんなきれいな子を見たよ。いっぺん、遊びに来させんかね」  デビューして、いくらもたたぬころにそう云われている。滝ははあはあと答えて放っておいた。  頼みごとがなければバーゲン・セールにかける商品ではない。向うもそれは承知で、何かあったら抱かせて貰うぞと通告したわけだ。  良に内心で食指を動かしている男女はいくらでもいるので、こんどの大賞獲得のためのリスト・アップをしていても、何でもいいから女をあてがえと露骨に要求したものが大部分で、あとは誰それとプロのタレントを指名してくるもの、良をと名指したものもかなりいる。  このことの成るためには、良にどんなことをさせてもと滝は思っている。彼も美人局までしているのだ。そのかわりそれだけのむくいはある。  結城にも云われたように、はからずもブラッドの惨事に乗ずるかたちになったのを、少し事情に通じていて鼻がきけば一+一とわかってしまうので、あんたはこわいねえ、殺しまでうけおうような人にはさからえないよ、だの、ようマフィアの大将! などといやがらせを云われたが、もとより良心に恥じねばならぬことはしていないと信じていた。  それは起訴はでっちあげだったが、事実それだけのことはしている。枕辺に立つ亡霊はいなかった。  関口は考えこむように、ぽつりとある数字を口にした。案の定法外な金額である。 「いやあ、困らさないで下さいよ、先生」  滝は泣きごとを云う口調になった。 「実売数二百万と云ったって、印税はどうせマルスさんなんです。芸能プロなんて、どんなにみじめなものか、ご存知じゃないですか。レコード会社にゃ出してやってると威張られ、ディレクターやプロデューサーにゃ使ってやるから金を出せとやられ、代理店にゃスポンサーの意向だと無理難題を云われる。こんな割にあわない商売はありゃしませんよ」  このあとはもう単なる商取引で、互いに虚々実々のかけひきの裏は見えている。実のところどこが相場で、どこでおりあうかも大体決まっているが、そう云えばプロは納得するのだから、その金額より少しでも安く話をつけさせて、相場の分をプロからひきだせば、差額は滝個人をうるおすわけだ。  実はこんどの大賞のことは滝の独断専行なので、これがうまくいかないと下手をしたらそんな金は出せぬと云われてつっぱなされ、全部持出しにさせられてしまう。滝は自分の持って生まれたなめらかな舌を最大限に発揮した。 「もう、それは、先生のおっしゃることでしたら、それこそこの私の手足を切れとおっしゃられてもよろこんでうかがうすじあいですし、それだって到底ご恩の百分の一もおかえしできやしませんが、ただ、ほんとうにつまり──私どもは、心ばかりはやって、入るものの入らん商売でしてねえ。ありさえすれば、一億が十億でもたちまちこのテーブルにつみあげてごらんに入れますが」  滝には滝で五十人のうち三十人はこっちで話をつけたんだぞ、という腹があるし、関口には、こんなことはこれまでないことだからこれまでの相場できくわけにはいかない、という腹がある。  三十人話をつけて、未成年の少女と寝ている現場を写真にとられた田代正吾や、百万とられた娘の親が告訴すると云うのを示談で押さえてやっているのだぞと云ってある中村流三はともかく、貰い得、抱き得で良に一票を入れないで済ましてしまうのがまず半分はいると見るべきだ。  なにしろ無記名投票が泣きどころである。だからこそ五十人全員から口さきだけでも良に入れると約束をとりつけてかろうじて過半数と読んでちょうどいいぐらいなはずである。といって五十人のいずれ劣らぬ実力者たちをすべて脅喝もしかねる。  滝も関口も互いの足場は百も承知なのだ。滝はひたすら金のなさを嘆くばかりで、こちらから玉を抱かすとはおくびにも出さない。これは出そうもないと関口が諦めたところで、ではこちらでと向うから云い出させて承知してやる肚だ。  しかし関口は滝の思ったより早く、あっさりと金額を相場まで折れてきた。 「だがまあ、こっちもこれだけあれしているんだし、なあ滝君、男もこう年をとると、そんじょそこらの女の尻を追いかけるのも体面にかかわるし、ありきたりのことじゃあきたらなくなってねえ」 「先生はお口が奢っていらっしゃいますからな。お口といえば、そっちでなく、本物のこちらの方で、ぜひおすすめしたい赤坂の料亭を教えられましてね。そのうち、うちの社長がぜひ久々にゆるりとご招待したいと申してますんですが」 「そりゃいいがね」  関口は顎を撫でた。時計を見て、まわりくどいことをやめたという思いいれであっさり云う。 「年寄りの回春剤には、若いきれいな男の子もいいもんでね。といって女も捨てがたい。どうかねえ、わしは、いっぺん試してみたいと思ってたんだが、昔の徳川の将軍なんかは、よく両脇に寝かして、ふたいろかけて楽しんだそうだな。たいそうな贅沢なもんだそうだよ。柳沢吉保だの、間部詮房だの、みなその口らしいな」 「相変らず、お盛んなことで、羨望のきわみですな」 「何を云っとるか、きみの話をきいとるよ。まあ若いうちは何をしても要するに同じことだが、年をとると、感覚が麻痺するんだね。多少趣向が変っておらんと──しかし、いつも見ているが、ああ細くては、あれだろうな、きついだろうな、あちらの相手は」 「はあ──まあ何ですかたまにそういうのもいるんでしょうが、いくじがなくって、それがどうにもだめなんですな。もっともそれがいいとおっしゃるなら──」 「いや、いや滝君──心配には及ばんよ。大事な目玉商品を傷つけちゃわるいし、第一もう十、若かったらそういうのは見逃せなかったが──ずいぶんやったもんだ。しかしこの年じゃ、刺激が強すぎるのはね。その心配はいらんが──で、しかし、それでいるのかな、そこまでやろうって女の方は」 「はあ、そりゃ何とかなるでしょう」 「なるべくなら、あの子ぐらい若くて、やわらかいぽっちゃりの子がいいな。やはりきみ、この醍醐味は、対照の妙というところだろうからね」 「さがしてみましょう。あると思いますな。先生はあれですな、ご風流で舌が肥えてらっしゃるから、少し時間がかかっても、お気に召すようなのをさがしましょう」 「あんたには何回か世話になってるが、一回もがっかりさせられたことはないからね」  関口は上機嫌になっていた。 「よく使いこんであるのがいい。あの子の方は文句はないわけだな。わしの目の前で女の方とやったりしても?」 「それはもう心得てますでしょう」  滝は口もとをゆがめた。  そういえば、おれは良が女を知ってるのかどうか、なぜか考えてみたこともなかったのだ、と思う。十七は中途半端な年齢だ。少しぐれて喫茶店にたむろしていたような少年には、あれだけの美貌であれば、いくらでも恋のまねごとのチャンスはあっただろう。しかしまた自分以外のものに興味のない、わるく云えば多分にエゴイスティックなナルシスでしかない良である。 (どうでもよいことだ。女は良を汚せないだろう)  滝は、ふっと自分を笑った。彼には女を、金を、交換条件の仕事を調達する忙しい仕事が待っていた。  結城修二から謎めいた電話がかかってきたのは、関口に工作をひき受けさせてから数日後である。 「あんたも、しつこい人だね、滝さん」 「何のことですか」  滝は問いかえしたが、結城の声は電話の向うで笑いを含んでいた。 「まあ、仕方あるまい、また一票ふえたと安心するんだな。僕はすると云ったら、無記名だろうとなかろうと、するからね」 「ご無理をお願いしまして」  滝はしゃあしゃあと云ってのけた。 「しかし、先生もいつかは、私どもに恩を売っておいて賢かった、先見の明があったとお思いになりますよ。白井先生のことから、先生にはもう、言葉に尽せないご恩を受けてますからな。まあ人助けのついでとお思い下さって」 「あんたの恩がえしはかえってこわいね、滝さん」 「何をおっしゃいます」 「まあ仕方ないさ」  結城はもう一度云った。滝は考えてみて、すぐに解答をみつけた。結城の実父で三島コンツェルンの参謀といわれる、結城重工業の会長の結城大作は、田川派の大物長谷川正毅のために金を出しているという話だ。長谷川代議士は次期蔵相の声もあるが、これが関口と面識があるわけだろう。  父親の義理から結城のような男を口説いては逆効果になるかもしれぬと滝は心配したが、半面結城だけはどうしてもこちらにつけておきたい。結城が声をかければ動く連中もずいぶんいるのだ。滝はいっそう丁寧にうやうやしく礼を云った。 「礼なんか云ってほしくないね」  結城はそっけない。 「まあできることはしておくよ。これも云ってみれば自分ではじめたことだものね。それに僕は、滝さん、あんたのような人は、嫌いじゃない。夢をもって、その夢の実現のために手段を選ばず強引につきすすむところはね。強制されて、不愉快でないなんて云わないよ。しかしあんたのやり口を見ているのは興味がある。僕はしぶとい人間が好きだからね。しかしだね、滝さん」 「はあ」 「あんたには致命的な欠点がひとつあるね。あんたには、実行力決断力着眼のよさ押し強さ、みんなそなわってるが、ただひとつ、あんたには大局的な目というものがまったくない。あんたはたいした男なんだから、惜しいと思うね。あんたは視野がせまい。というより、もっとわるい。そんなものは必要でないと思っている。あんたは自分の夢しか見てはいないんだよ。まあそこがあんたの強さだとも云えるが──覚えておくといい、あんたがしくじるとすればその原因もまたあんたの内にある。あんたはいつか自分の作品に、あんたがすべてを賭けている自分の作品に裏切られるよ。僕がこう云うそのいわれも、あんたには見えてはいないだろうがね、作品がその生みの親にそむくのは、これは運命なんだよ」  滝は答えようがなくて黙っていた。結城は短く笑って、向うから電話を切ったが、たしかに彼の矢は滝のどこかをちくりとさしていた。結城は何を云ってるのだろう、と滝は疑った。(結城は、何か知っているんだろうか──良のことで、おれの知らんことを……良に、おれの知らんこと、おれの見ていない良があるんだろうか? まさか──)  彼は良を生み、育てた人間である。良のその気まぐれな心のゆらめきも、どんな表情のかぎろいも、滝は知りつくしているつもりでいた。  良のわけもなくまきちらす、時に罪がないとは云ってやれない嘘も、たいてい滝は証拠を握ったまま放っておく。山下に何をねだっているかも、どんなふうに無邪気な顔をしてみせて白井みゆきに取り入っているかも、おそらく佐伯と関係があるらしいことも──それを彼は渡辺からきいたし──彼は嫉妬に苦しんで良が「みゆき御殿」には行かなかったことを打ち明けた清からそのことを知ったのだった──それから注意して見ていて佐伯の目つきや態度、良のいくらかわざとらしい無視のうちにはっきりとたしかめていた──みなこころえている。  それは滝にとっては良への錯綜した愛憎のみなもとをなす放任である。なんとかしなければと考える気持も一方で良のからだを切り売りしているという意識と、そんな小悪魔が目ざめ、しだいにはびこってきた良の許しがたい魅惑に対する危険な傾斜と惑溺のはざまでしだいにどこかへ押しやられていくようである。  それは、案外滝がこれまでよりさらに良を自らと結ばれ、自らと運命づけられたものとして心に深くくいこませ、心を良でだけ満たしてしまったためかもしれなかった。  滝の心も、日々も、生命も、すべての思いもいまではただ良、良だけのために動かされており、良のいないときにいったい自分が何をして生きていたのか、良がいなくなりでもしたら自分がどうなってしまうのか、想像もできなかった。滝はそう考え、ふと戦慄し、結城の放った矢の毒を忘れようとした。 (おれは良のすべてを知っているさ。良はおれのものだ。おれの知らん良など──あるものか)  何も喋らぬ、何を考えているかよくわからぬ痩せた少年から、嘘と気まぐれな感情をまきちらすようになった華麗な光の中のアイドルになった良を、そのすべてを支配の爪の下におくために、彼は良のまわりに監視と猜疑の網をはりめぐらしているのだから。そう考えて、ようやく少し彼は安心した。       * * *  時は過ぎてゆく。良にとってはそれはたえまない、拍手と嬌声、熱っぽい凝視と気まぐれなたわむれ、光の中のステージともう手馴れた歌とアクション、サインと花束、仮縫とリハーサルとビデオと杉田の指示、ブロマイドとインタビュー、フラッシュとファン・レターに隙なく埋もれた日々である。  レッスンのあいまをぬすんで、そっと唇を求めてくる山下国夫の唇や、(可愛くって、食べてしまいたい)といつも云っているような白井みゆきの目や、その目をぬすんでみだらな愛撫を投げてくる佐伯真一の微笑、清のただ見つめているだけでしだいに苦しさを増してくるような熱っぽい目、プレゼント、囁き、自分ではその全体をつかむこともかなわぬままディレクターや演出の云うとおりに動き、喋り、歌うだけの時間、滝のほとんどいない、しかし滝がどこかで見つめ、滝がひそかな支配の網をはりめぐらしている時間が良をつつんでいる。  どこでもちょっと眠ってからだを休めるすべ、誰にむかっても機械的にほほえむすべ、音楽がはじまると自動的に悲劇を身にまとうすべを良は覚えた。  何も考えたり、感じたりするひまのない時間の中を泳ぐことだ。良は、指示されるとおりに動き、求められるままに愛撫や接吻を受け入れ、送って貰ってマンションに帰ればただ泥のように眠りこむ毎日に狎れた。  滝を待つことも、滝を待たせることも、いわば忘れ去られた贅沢になったが、それでも良のなかには、滝の目があった。滝が作ったスケジュールで動き、滝が売った男に抱かれ、滝の目をぬすんで愛撫され、滝に嘘をついているあいだ、良を結びつけているのはやはり滝なのだ。  それは互いにわかっていることだ。ブラッドの惨事を知ってから良の滝への感情には微妙な、恐怖をひそめた信頼と屈従といったものがまざりこんできたが、良はそれを認めたくないために、いよいよいつも周囲を取り囲んでいるいわば滝の手足の人々に、我儘や嘘や気まぐれを吹き散らした。  どのみちそれは滝が相手のように手応えはなく、分きざみであちらのスタジオこちらのテレビ局と追いまわされる時のあいだに立ち消えてしまうのである。良のなかのわるいものは或は、母を求めて駄々をこねている子供にすぎないのかもしれなかった。滝をのぞいては、良を叱ったり、支配しようとかかるものなどどこにもなかったからである。  良は日々に狎れていた。滝の作り予定を組む日々である。それが自分をどこに連れて行くのか、苦にすることを良は忘れようとしていた。  滝は良にはえたいのしれぬ東奔西走に忙しい。たえまなしに会わねばならぬ人や電話があり、こちらから出かけ、謎のような奔走にサブマネの杉田でさえまるきり滝のスケジュールや居どころを知らぬようである。  滝にとっては、良にはすでに何も目新しさのなくなったステージと付合いとのおりかえしにすぎない毎日が、きわどい勝負をかけた綱渡りの一歩ごとに似ていた。  時はすぎてゆく。夏がすぎ、秋が深まり、冬が来て、街は灰色を装う。  それは滝にとってはポップス大賞のタイム・リミットが近づくことである。滝はぎりぎりの逆転劇を演出しようともくろんでいた。  大賞のノミネートは十一月末になる。発表が暮の三十一日である。良にポップス大賞をなどとはおくびにも出さず、ありがたそうに新人賞ノミネートを受けておく。衆目の一致するところで文句なく新人賞を受賞し、 「これで今西くんは一応ポップス大賞ノミネートの資格が与えられます」  ときかされても誰もそれが形式であることを知っているから問題にはしない。それをいよいよ発表されたとたんに、世間を驚倒させようという腹である。本命を失った大賞レースに、目下どのプロダクションも血まなこになって委員詣をしている。  委員の方は役得でそれをかきあつめるだけかきあつめ、ゆっくり情勢をうかがってやろうという顔だ。  どこも必死だから、弱みを握られているのでないメンバーは、滝が申し出た以上の条件が出ればそちらになびかぬともかぎらない。一回承知させたからといって安心はできないのだった。  大賞を受ければたちどころに回収できるからと投入した経費も、もしこの勝負に敗れたらすべて持ち出しになる。滝は一瞬も気が抜けなかった。  そうして日はすぎていく。動き、かけまわり、策動する日々の中で、ひとは自らをかえりみて驚く時間もなく、思わず足をとめて季節のおりなす詩に見とれるいとまもない。滝は秋の来たり、秋の去ったのを知らなかった。  十一月の初リサイタルは成功し、失神した少女ファンまで出し、≪ジョニー・ブーム≫は新聞も言及するところとなった。  したり顔の評論家の分析や警告は滝を笑わせた。ことばはいつも現象より遅れてやってくる。利用できるもの以外のお喋りには滝は関心を払わなかった。  評論家がどう分析しようとも、少女たちは≪ジョニー・ファースト・リサイタル≫の前売に徹夜で並んだし、劇場を取り巻いて「ジョニー」「ジョニー」と悲鳴のような声をふりしぼっていた。  初LPは先着三万名に特別製パネルをという宣伝も当って、予想以上の売れゆきを示していた。十一月の末になって、ポップス大賞各賞のノミネートが発表されたとき、まっさきに新人賞候補にあがった今西良の名を見て、そのあとの手続きが単に形式にすぎないことを認めぬものは専門家からただのファンに至るまで、誰ひとりとしていなかった。  十一月二十五日には、第一回ディスク大賞の年間最優秀に『裏切りのテーマ』が満場一致で選出された。賞状と「ゴールド・ディスク」を手にし、作曲の山下国夫と作詞の松浦亮にはさまれて頬を紅潮させた良の写真がすべての新聞雑誌の芸能欄を飾った。 「人には、『運命の年』と呼ぶべき一年があるものだ」  とある芸能誌の記事は書いていた。 「去年の今ごろには、下町のジャズ喫茶で好きなギターをつまびく少年にすぎなかったジョニー。そのジョニーの一年後のこのまばゆいばかりの栄光を、いったい誰が予言することができただろう。デビュー曲『裏切りのテーマ』の爆発的ヒットによって、一躍スーパー・アイドルにのしあがったジョニー。この一年は(まだおわっていないが)ジョニーにとって夢にも見なかった運命の渦にただひたすら運ばれた年だったはず。三百万枚という、ポップス史上でも五指に入る超大ヒット、新人にとってはまったく異例の、桜木曜子とのジョイント・リサイタル、白井みゆきリサイタルのゲスト出演、初ソロ・リサイタル、初LP発売のいずれも大成功。どれひとつとっても、これまでにないスーパースター・ジョニーへの、まばゆい一歩一歩でないものはない。伝説につつまれてはじまろうとするジョニーのスターとしての歴史にとっても、この一年は永遠に忘れられない『運命の年』として残ることだろう。第一回ディスク大賞の栄光に輝く十七歳のアイドルの涙にうるんだ瞳は、その感激をいま改めてかみしめているように見えた」  事務所には、渡辺や清がせっせと作る、良専用のスクラップ・ブックがすでに数冊ある。それに目をとおしながら、まだだ、と滝はひとり笑っていた。まだこの一年は、≪運命の一年≫はおわっちゃいない、まだ早い、さいごのさいごまで待ってみろ、という笑いである。こんどこそ、芸能界はとびあがって驚倒するだろう。  これまでにないスーパースターのためには、これまでにない神話が用意されなければならなかった。滝のひそかな思いを隠して、いよいよ慌しい日々がつづくうちに、早くも暮がやってきていた。 「ジョニー、きれいよ」  声をあげたのは、女ながら敏腕で知られて、尾崎プロの副社長として渉外をつとめる、デュークの妻君のマーサ尾崎夫人である。別に二世ではなく、尾崎真佐子をもじった愛称だった。  大柄なからだに原色のイブニングをまとい、宝石類をきらめかせて孔雀のように会場を睥睨するところはさすがにプロの連中からマーサのママと呼ばれる女傑の名に恥じなかったが、晴れの日のいでたちを検分と専属のデザイナーの北川夫人とやってきて、ひと目見たとたんの嘆声には、小娘のような驚嘆がこもっていた。 「やっぱり、成功ね。ちょっとさすがに心配したけどよくはえるじゃないの」  専門家らしく一歩さがってねめまわした北川女史が満足げに云う。  まったく美しい、と滝は暮の三十一日、──「運命の」三十一日の重みも知らぬげに、もうお馴染のスタッフたちに囲まれて立つ良のはなやかな姿にちらりと目をやりながらうなずいた。  ノミネート歌手たちの挨拶がおわり、いよいよ発表会を待つあいだの控室である。良はこのあと公共放送の「対抗歌合戦」にも選ばれており、それには別に純白の衣装が新調してあったが、格式ある「ポップス大賞」のためのいでたちは、特に北川デザイナーが苦労してデザインしたもので、はじめての黒だった。 ≪純白のアイドル≫というキャッチ・フレーズを使っていたから、鮮かな対照の効果を狙ったのだ。  これは既にわかっている最優秀新人賞が、発表になったとき舞台のライトを消して、ぱっとスポット・ライトで出るためのもので、挨拶はいつものチュニックで出、そのあといそいで着更えた。  黒のベルベットにスパンコールで華やかさをそえたジャンプ・スーツ型で、裾はパンタロン、腰のところには共布のサッシュを垂らし、袖はゆったりして手首をぎゅっとしめ、衿もとはV字型にあけて立カラーになっていた。黒いドレスの衿から出た真白な胸に、黒真珠が四連にさがっている。耳にピアス、細い指に金に真珠で花をデザインした指輪──山下のプレゼントだ──をはめ、手首のカラーのところをねりものだが真珠をつづったブレスレットでまいた。サッシュの結び目の上に金製のバラをつけて、いつもより化粧が濃い。  ハリウッドの女優かなにかのように、それは、めざましいドレス・アップぶりだった。北川デザイナーはじめ、メーク係、衣装係などが総出で何日もかけて良をいじくりまわしたあげくの戦果である。光の中でちかりと輝く効果を出そうというのでやわらかに渦まく髪のそこここにそっと金粉がまかれ、アイ・シャドウにも少し入れられた。  良は人形のように云うなりになっていたが、目を開き、支度をすべて済ませて、「さあいいですよ」という声で大鏡をのぞきこんだときには、うしろで瞠目していた滝にもはっきりわかるくらい、ごくりと息を呑み、さっと頬を紅潮させた。  鏡の中には、うつし世のものかと疑うような、妖しい、なまめいた、まばゆい生き物がうつしだされていた。純白につつまれた良ばかり見ていた目に、滝にすら、夜闇を身にまとった、そのそこここに星をちりばめた漆黒の姿がはっとするほど鮮烈にひき立てる、黒真珠を揺らせた胸、化粧された顔、重そうなブレスレットから出た細い手、のぬけるような白さは衝撃的にまぶしかった。 「すごいわ、なんてきれいなの」  マーサ尾崎は爪を染めた手をのばしてそっと良の頬にふれ、首をふった。良のまぶたが何か真珠貝の内側を思わせて青い。  良は人々の讃仰と驚嘆を当然のように一身に集めて、神秘な祭祀の巫女のようにかれに見惚れる人々の中に立っていた。思いきった衣装に身を鎧って、頬にすきとおる血の色を透かせたきり、かぎりなく美しく妖しい、精緻な人形と化したかのようだ。 「今西さん、お願いします」  出番をつげにきたADがはっとしたように息を呑んだ。 「さあ、出だ」 「ジョニーに決まってるんだから、落着いてね」  マーサがかるくその肩を抱くようにした。この大賞の発表会のあと、「対抗歌合戦」が済んでから、花村ミミ、桜木曜子など尾崎プロのタレントと、そのスタッフたちがみな社長宅へ集まって、新年を迎え、挨拶してから解散する恒例である。 「良」  滝は黒づくめで腰のバラを気にしている良をひっぱって、傍に連れて行き、その耳に口を寄せた。 「いいか、何があっても驚くんじゃないぞ。何があってもだ」 「うん」  良は別にいぶかしんだようすもなく、といってわかったようでもなく滝に笑った。黒いドレスの胸からのぞく咽喉もとの白さが目にしみる。 「良の黒がこんなにいいとは思わなかったよ」  滝は良の髪を撫で、顎をしゃくって行ってこいと合図した。 「おれたちはホールのスタッフの席の方にいるからな」 「うん、見ててね」  すでに特別賞毛利雪子、歌唱賞堀純一が発表になり、トロフィーを手に、用意されたステージの脇の椅子にかけている。 「今西クン、早く」  良はADに手をひっぱられて、オケの横からステージに入った。  ステージはまったくライトを消し、オケの山台だけがほの白く照らされて、別あつらえの脇ステージに振袖の女優をアシスタントにした司会者が、低いバック・ミュージックの流れる中で香具師よろしくの口上を並べ立てるところだ。 「灯りが消えた中を、ひとりずつステージに並ぶ、栄光のポップス大賞新人賞ノミネート歌手たち。はたしてスポット・ライトに照らし出されるのは誰か?──来ました。審査員一同のもとからいま、わたくしの手もとに、一通の封筒が届けられました。この中に、ことし一年を輝くスターの座への足がかりにと望む新人五人の中からたったひとり選ばれる、今年最大の新スターの名があるのです──発表します、全日本ポップス大賞新人賞は──」  司会者が気をもたせてことばをきると、バンドは低くドラムが打ち鳴らされて、大ホールはしんとなった。 「『裏切りのテーマ』! 今西良! ジョニー、おめでとう!」  おそらく、他のプロの新人や関係者でも、失望こそすれ、やはりと思わなかったものは誰ひとりいなかっただろう。だが、司会者の大声と同時にバンドが耳も聾せんばかりにその大ヒットのソウル・ナンバーを奏しはじめ、一瞬ステージをさまよったあとでライトが左右から一箇所にしぼられたとたんに、期せずしてどよめきが起った。  光の中で、照らし出された良は頬を火照らせ、輝くように微笑し、いくぶん両手をさしのべた、漆黒の姿にまばゆい星の輝きをまつわらせて立っていた。  少女ファンの嬌声は絶叫に変ってホールをどよもしていた。 「ジョニー!」 「ジョニー」 「当然、まさに当然としか云えません。ジョニー・ブームとまで呼ばれた三百万枚の超大ヒット、数々のリサイタル、もはやこの人を新人と呼ぶことはできません。何も云うことはありません。おめでとう、ジョニー──さあ、歌って下さい。何も云わずにこの歌を──いま特別席から作曲の山下国夫先生、作詞の松浦亮先生がステージにあがります。ポップス史上に輝く大ヒットの生みの親に見守られて、今西良くんが歌います。受賞曲『裏切りのテーマ』!」  落着いている、と滝は、他のノミネート歌手がひきさがり、かわってタキシード姿の山下と松浦が花束をかかえて上ってきた、明るくなったステージに、コードをさばいて進み出る良を見て思った。  良の声はしっかりとのびていた。山下は、めちゃくちゃに嬉しそうだ。その目はむさぼるように妖しい黒衣の天使のような良からはなれない。  良が歌いおわると割れんばかりの拍手、また拍手だった。山下たちはアシスタントに誘導されてステージからおりる。椅子の方へ行こうとする良を司会者が止めた。 「そのまま、そのまま、今西くん。最優秀新人賞受賞により、今西くんもポップス大賞グラン・プリ候補の資格ができたことになります。特別賞の毛利さん、歌唱賞の堀くんもこっちへ来て下さい。大賞ノミネート歌手八人の入場です。さあ、いよいよ残るはただひとつ、輝くグラン・プリの発表です!」  そして再び、もったいぶった儀式の全行程のくりかえしだ。ひとりひとりの名と曲名が呼ばれ、ライトがひとつずつ消えてゆく。  この期に及んでも、なお滝に一抹の危惧がなかったわけではない。茶番を見ているのだと頭では考えても、壮麗なホールや祭祀の重々しさが滝をすら侵食するのだ。  そのとき、しかし、彼はうしろからそっと肩におかれた手にふりかえった。  純白のタキシード姿の結城修二の美貌が、彼に笑いかけていた。広大なホールの最後部の柱の蔭である。 「かれだよ」  結城は滝にだけきこえる声で云った。  すでに審査はおわり、結城は審査員の特別室から抜け出して、報せにきてくれたのだ。  結城の気持はわからないと滝は思い、黙って頭をさげた。滝の裏工作を、不快に感じていると思っていたのだ。だが結城の目は笑っていた。 「大体皆守ったようだ。あんたに逆らうと、消されると思ったんだろうね」 「何をおっしゃいます」 「発表だよ」  結城はまだ低く笑いながら滝の肩に腕をまわした。心なしかその笑いは皮肉なひびきをひそめていた。 「あんたの作品だ。この賭けは、あんたの作品だよ──前例のない──」 「今西良!」  という司会者の驚愕をひそめた叫び声が滝の耳を打った。だが、滝は、つづいて起ったざわめき、どよめき、ファンの歓声、すべてがいりまじって手のつけられぬ騒ぎとなったホールの中にいることを、ほとんど感じてはいなかった。事成れりというよろこびもまだわいてこない。  結城の目には奇妙な皮肉な表情があり、それが彼を不安にした。彼は細めた目に強い光をうかべ、じっと結城を見つめていた。 [#改ページ]     13  濃密なピンク色の靄のようなものが良をつつんでいた。  白いほっそりしたからだをつつみこんでいる、そのきらきら光る霧は、ライトに照らし出され、良がゆるやかに、或は激しく、からだを動かすたびに、縫いこんだ銀の糸をまぶしく光らせる。  陽光が遠くうねる海原を光の玉をつらねた織物に変えてみせる魔術のように、光と音──人工の何百燭光の四方からの太陽と、この祭祀を前とうしろの双方から支え保証するオーケストラの音の波と客席の熱にうかされた歓喜──とがその十坪にも満たぬ空間を魔法にかかった、ただひとりの神の鎮座する錬金術の聖域に変えている。良はひとりだった。  それは恐ろしいまでの絶対的な≪ひとり≫なのだ。すべての目が良を見つめ、すべての口は≪ジョニー≫の名を呼び、空間は良の歌声に満たされている。そして良自身は、誰ひとり見てはいず、誰の名も呼びはせず、たったひとり、人々と、信者たちと、世界とむきあい、それをその細いからだに受けとめて歌いつづけているのだ。  良をつつんでいる華麗な衣装にも増して、その十八歳の少年のまわりに漂い、立ちのぼり、つつみこんでいる何かたしかな磁気、目に見えぬ白熱した香気のようなもの、それは、崇拝と熱狂とがあるひとりの人間に具現されているときにだけ感じられる、そのひとを無限に大きく、無限に輝かしく見せるようなスターの魔法だった。  熱っぽい目が良を追う。良の一挙手、一投足をつつみこみ、追い求め、呑みこもうとし、少女たちは魂の底までその美しいアイドルで満たしてしまおうとして手をさしのべ、その歌に身をゆだねる。  目を奪うような、銀のラメ入りの、ピンク色のコスチュームを、良は着ていた。胸はローマの貴族のようにひだをたたんでゆるくあき、両肩を銀のブローチでとめたゆったりした網目の衣装だ。それを腰できつく結んだ同色のサッシュが膝のへんまで垂れている。下は黒のベルベットのパンタロンで、手首のブレスレット、咽喉もとを飾るチョーカーは対の銀製だった。  ほとんど縫いのない、網目の布をとめつけたにひとしいゆるやかな衣装は、良が動くたびにふわりとひるがえり、ほっそりしたからだにまつわりつき、ちかりと銀色を光らせて、その光の渦をまとった白い上体は、時として裸体よりももっとエロティックに見えた。 「すげえなあ」  囁いていたのは、正面扉を入ってすぐの、最後列の椅子のうしろに立ったまま、呑まれたようにステージに目をやっていた、記者か他のプロダクションの関係者かなにからしいラフな風体の男たちである。  少女ファンたちの絶叫と、手をさしのべ、贈物や花をつき出して少しでも近づこうとステージに殺到する狂態に、噂ではきいて知っていても、あらためて度肝を抜かれたようだった。 「気狂いじみてら」 「しっ、どやされるぜ」  笑いながら注意した方は連れよりも少し年がいっている。それはそらごとではなく、現にずっと声を落していたのにうるさいとばかり最後列の少女がたけだけしくふりむいてにらみつけた。 「すげえすげえ」 「しかしけっこう──女だけとばっかり思ってたら、男もいるからふしぎじゃねえの」 「──だろ」  若い方がひそひそ云うなり、二人はぷっと吹き出した。再びけわしい非難の目をあびて、あわててもう少しひきさがる。 「しかしねえ、すげえ──の一語につきるな。ファンの気狂いぶりも、ジョニーご当人もさ」 「ピンクのドレスにブレスレットが三つずつか」 「ここからじゃよく見えんが、化粧してるんだろ。こないだのテレビでやった奴じゃ、何かほっぺたにも少し銀粉つけてたっけ。それにアイ・シャドウさ」 「まあ、そりゃきれいはきれいだがねえ。ちょっと俺なんかにゃ、わからんね、女の子たちの気持は」 「ぞっとするほどきれいだけどね。まあ、三輪臣吾なんかと同じようなもんなんだろ、吉川雄光の息子とかさ」 「〈ミシェル〉か」  その男は顎をかいて、ステージに目をやった。 「あれとは、ちょっとちがうみたいだけどなあ」 「たしかに魅力あるんだろうけどね。島さんなんかは、あんなきれいな子はない、並の女なんか足もとにも及ばねえって惚れようだけどな」 「村さんは田夫野人だから」 「何云ってんだ。──しかしたしかに、あのちょいとものうげな歌い方ってのは、真似できんよなあ」 「みるみるうまくなったしね。やっぱり、大賞で自信もったのが大きいんだろう」 「それを云うならまさみも裕樹も大賞候補だが、連中みたいに可愛いのステキのってだけじゃ、こう東京プラザを立見まで満員にゃできないさ。|何か《ヽヽ》があるのは認めるけどね」 「曲にも恵まれたよ。きいてて、ぐっと来る曲ばっかりだし」 「それにしても、あんな顔して、すご腕なんだろうなあ」  また二人は声を忍んで笑いあった。意味ありげな笑いである。 「とにかくちょっとどこからどこまで、ケタがちがう感じだな。十八とは、思えんよ」 「静かにしてよ! きこえないじゃないの!」  こんどは少女は目を三角にしてどなり、二人は苦笑した。 「きこえるもきこえんも、このキャーキャーの中で歌もへったくれもないじゃないか」 「要するにジョニーが、本物のジョニーが出てきて手ふったりにこにこすればいいんだからな」 「GS以来とはよく云ったよ。結局この年頃の女の子はキャーキャー熱狂する対象をしょっちゅう求めてるんだろうな」  いっこうに斟酌せず二人はつづけた。 「とにかくこれはなんというか新興宗教じみてるよ。そんな気がしないかい」 「淫祠邪教だな。そういや、ジョニーってのも、まあ巫女じみたところがあるよ。神がかりのね──うしろに神官がいてさ。それのあやつってる人形なんだが──しかし、すご腕らしいね、滝俊介って男も」 「いまさら何を云ってんだ──あの子をうまいこと、売りつけちゃお偉方を籠絡してるってな、もう有名な話だよ」 「またみんなそれで籠絡されるらしいからな──よっぽど、いいんだろうな、あの子が」 「あれだけスキャンダルになっても、ファンの女のコたちは、なんとも思わんのだろうかね。あんなきれいな顔して、ちょっとこれまでの噂の半分が事実だとしたってふたりや三人じゃきかないことになるじゃないか」 「正直云って、しかし、ちょっと寝てみたい気もするね。ここだけの話だがね──ああ色っぽいと……」 「おやおや、危い危い、松田君がその趣味とはね」  ふたりは三たび少女ににらみつけられながらくっくっとみだらな忍び笑いをしあったが、ふいに村さんと呼ばれた年上の方がもうひとりをつついた。 「シッ、ご当人だ、滝マネだよ、あれが」 「ふん、とてもそんなすご腕には見えんな。なかなか、いい男じゃないか──楽屋にいなくていいのかな」 「しかしよくまあ滝俊介と云われたほどの男が、一介のマネージャーに身を落す気になったよな。その気になりゃ、自分のプロダクションを持ってやっていけると折紙つきの男がさ──やっぱり、惚れてるのかな」 「しっ、来たぞ」  二人は鼻白んで黙りこみ、滝が薄色のサングラスに鋭い目を隠した穏やかな顔で場内の熱狂を見まわし、そのまま二人には気づかぬていでひとつ横の扉からまたすべり出ていくのを見送った。  滝俊介が今西良の専属マネージャーに着任し、それまでのプロデュース活動一切から手をひくという挨拶状がまわって各方面を仰天させたのが、良の大賞獲得からいくらもたたぬころだからもうそろそろ一年近くなる。  もともと目つきをのぞけば穏和で紳士的に見える滝の顔は、マネージャーと名を変えてからいっそう底の知れぬ、この種族特有のものやわらかなあしらいと人当たりのよさをまといつけて来、鋼鉄のきらめきを帯びた目もずっとサングラスに隠されていたが、その無表情ないくぶん疲れたような顔の奥では何ものをも見逃さぬ、何ものをも容赦せぬ果断な酷薄な性格はいよいよきわだってきていた。  客席のようすを見まわってから、そのまま脇の廊下から楽屋に戻ってきた滝のサングラスに隠れた目の中に、ほのかな笑いのかげがある。 (スキャンダルか)  そっと、暗い場内にすべりこもうとして、滝は扉の前に立っている二人の記者のひそめた声をきいた。そのまま、足をとめて耳をすませ、それからとなりの扉へまわって中へ姿を見せたのである。 「滝マネいますか」 「ここだよ」 「あの、ホールの管理の人がちょっと責任者をって云ってるんですけど」 「わかった、いま行くよ」  ごたごたと物のおいてある、裏方の走りまわっている舞台裏を呼ばれて急いで通りぬけながら、ちょっと滝は賑やかな音楽と歌声のひびいてくる厚い垂幕の向うの、ライトにつつまれたステージをすかし見るように目をやった。  去年の暮の、デビュー曲で大賞獲得というかつてない快挙以来の≪ジョニー≫の華やかな栄光の足どりは、また賑やかにスキャンダルにいろどられたそれでもある。  受賞曲『裏切りのテーマ』につづく『ガラスの天使』『ラブ・ミー・ベイビー』のいずれもミリオン・セラー突破、ベストワンという記録。全国縦断ツアーの成功、三回のワンマンショー、昨年につづく白井みゆきリサイタルでのゲスト出演。  八月末発売の新曲『水色の明日』も、これまでと少しおもむきのちがう美しい悲しみをおびたスロー・ロック・ナンバーだが、一月ですでにベスト二十入りして調子は上々である。  だがそれと同時に、リサイタルでの初共演抜擢以来くすぶりつづけている、白井みゆきと佐伯真一との三角関係のスキャンダルは別にしても、例のない大賞獲得後早速、「黒いポップス大賞──汚れなき十七歳の栄光の影にいまわしい噂が、その真相は?」という記事が出たし、──それは登場人物が良以外は残らずイニシァルでしか書かれていないいかがわしげなものだったが──審査委員のひとりで暗に滝の贈賄で良に投票したと名ざされたマルス・レコード系の作詞家がその週刊誌を告訴するという騒ぎ、「ジョニーのケースに改めてあばかれた芸能界の体質──ヤラセ、飲ませ、つかませは常識と豪語するマネージャーたちの生きざま」などという記事にもなった。  この騒ぎを滝は別に手も打たずに放っておいたが、女性週刊誌は全体に同情的で、「ジョニーの上におそいかかる心なきぬれぎぬに少女ファン涙の抗議」というような取りあげかただった。  誌上に掲載された、ファンの抗議の手紙と称するものも、また「読者のひろば」といった欄にのる投書も大体において同じ調子だった。 「こんな悲しかったことはありません。××誌の記事を読んで、ひと晩泣きあかしました。ジョニーのポップス大賞がお金で買ったものだなんて──ジョニーはどんなに傷ついて、いやな思いをしたでしょう。誰が見たって、去年の大賞にふさわしい歌手はジョニーしかいなかったのです。それを、たまたまデビュー一年目だったからといってそんなことを云うなんて許せません。ジョニーはまだたった十七なのです。おとなたちの汚れた目で見てほしくないのです。ジョニーのあの美しい目、清らかな笑顔をひとめ見さえすれば、そんな汚ないことを許すかどうかわかるはずです。お願い! 大人のひとたち、どうか私たちのジョニーを汚さないで。ファンはみなくやしくてたまらず、毎日泣きたい思いでいます」 「私のジョニーのポップス大賞を八百長だなんて! もう二度と××誌は買わないワ! 全国のジョニー・ファンのみなさん、こんなデマにだまされないで。こんなときこそ、ジョニーにはファンのあたたかい目で見守っていることを知らせてあげなければ。私はデビューしたときのあのどんな女の人より美しい淋しげな横顔をひと目見たときからジョニーのファンになり、毎日ジョニーのことばかり考えていますが、こんどのことでよけいかわいそうでジョニーが好きでたまらなくなりました」  直接に事務所に届いた手紙もダンボールに数箱ではきかなかった。大体激励が七、いやがらせや怒りや中傷三というところだ。  どっちみち、滝は良にはお前はただ歌えばいいんだ、考えたり感じたりは俺の仕事だと云ってあるし、良自身も別に関心を持っていないようなので、そのどちらも本人は読みもしなかったし、どの雑誌も取りたがっていたがすべてノー・コメントで押しとおして、何の談話も発表させなかった。  そのかわりデューク尾崎などが、良はショックを受け、大賞の辞退を申し出たが、「うしろぐらいことがないからこそ毅然として受けるべきなのだ」とひきとめた、なぞというコメントを流したわけだ。  これは『ガラスの天使』のヒットと歩調をあわせたように、『ラブ・ミー・ベイビー』の発売ごろには消えていたが、全国縦断ツアーの皮切りの「志道館フリー・コンサート」の前になって、こんどは「最後の独身大物女優・高見沢慶子(32)があのジョニーに夢中だって!」というのが出た。「年上の女《ひと》のハートをくすぐるジョニーの憂愁の翳──馴れそめは、ポップス大賞受賞式で黄金のトロフィーを手渡してから!」「白井みゆきはどうなる? 本誌独占手記、ジョニーは見ていると雪みたいにとけてしまいそうで辛いの──高見沢慶子」 「あなたってわるい人ね」  滝のやりかたをよく知っている、滝の情人の花村ミミは、情事のあとのベッドで滝をまさぐりながら、くすくす笑って云ったものである。 「ケイコのこれよ。嘘つきね」 「何がさ」 「あたし知ってんのよ。ケイコはFETのディレクターとこれでもう三年になるじゃないの。十いくつも年下の良ちゃんなんて──」 「おれは知らんよ。恋だってのは勝手に向うが書いたことだ。高見沢慶子だって手頃な煙幕のつもりだろうさ」 「でもおかげで志道館は怪我人まで出す騒ぎだったっていうじゃないの」 「おれは知らんなあ」  滝は梟のようなとぼけた顔をし、ミミは彼の脇腹をぎゅっと抓った。 「良ちゃんてまったく都合よく、何か新曲発売とか、ビッグ・イベントやろうとかいう前になると何か起って、話題の人になってるのね」 「全国ツアーで名古屋では、慶子が花束渡してさ──ちょうど御園座に出てたからね。ファンが悲鳴あげてたら、良の奴すましてお姉さんの結婚式にはきっと呼んで下さいとやって大笑いだ」 「ツアーが済んだらついぞきかないじゃないの」  ミミは、昨年前半の『忘れないわ』の八十万枚ヒット以来、三曲ほどが不発におわり、少し焦っているようでもある。  今年三十歳の彼女には、ようやくいろいろな不安や焦りがひとつになってあらわれてくる頃なのだろう。こころなしか、二人がベッドで必ずといってよいほど話題にする良のことも、最近になって滝はミミの語調にひそかな嫉妬のほんとうの芽生えがあるような気がしている。 (結婚しないか、と云ってみてやるべきなのかな)  ときどき滝は思った。ミミなら、互いにまったくうまくゆくだろうとは思っている。ミミは聡明で滝の嫌いなべたついたところのないよい女だ。だがそう云ったときのミミの反応も滝には目に見えるような気がした。 「だめよオ、そんな冗談云っちゃ」  声を立てて笑いとばしてから、ふいにきらりと意地悪く目を輝かせて云うだろう。 「第一あなたはもう奥さんいるじゃないの。ちがうなんて云わせないわよ。あたしわかってるのよ」  滝はひとりで勝手に思いうかべた空想に、ひとりでうろたえている。滝がプロデュースをやめ、タレント発掘のちょっと他の追随をゆるさぬ貴重な地盤も後進にゆずって、今西良専属マネージャーという地位にいわば身を落したのは、良が売り出すにつれてはなれて行動することが多くなった自分を思い、良を野放しにしておいては互いによくないと考えたからで、つまりは良と一分でもよけいに一緒にいるためである。 (良の奴にはしじゅう見ていて、きつく云ってやる奴が必要なんだ)  その滝の思いは、自らの運命を固く結びつけ、ひきはなそうとすれば心をひきさいて殺さねばならない、男が一生にふたりとは見出さないおのれの見失っていた半身への思いである。 (作品はいつか必ず生みの親にそむくものだよ)  かつて、結城修二に云われて以来、そのことばの持つ毒は滝をはなれず、しだいに心の深部に食い入ってきていた。滝が認めたがらぬその思いは、万が一良を失いでもしたら、彼には何ひとつ残らない、無、以下なのだ、という熱い深いいたみ、ついにひとに心を捕えられつながれてしまった男のひそかな悔いに似た苦悩の芽生えである。  プロデューサーからマネージャーにうつったことは、実質的にはそれほどのちがいはなくても──それまでも彼はマネージ兼務でかけまわっていたのだから──象徴的に、良の上に君臨する造物主から、良のためにはたらく祭司長への変化であった。  実際のところは滝が人形つかいであることには変りはないのだが、意識していない深部で滝は変っている。  それは、彼がもはや良を失うことには耐えられぬ、そのぐらいなら良のために死んだ方がいいということなのだった。  滝の変化は、良には敏感に、潮がみなぎってゆくようにひびいている。 「滝さんぼくのマネージャーになるの?」  驚き、とび立つような嬉しさで叫んだ良の可憐な表情を滝は心にとどめていた。 「ちぇ──これから全然遊ばしてくれなくなるんでしょう」 「当り前だ。おれは、うるさいぞ」 「まったく小姑なんだからな。あーあ、これまでは夜だけだと思ったら、こんどはいちんちじゅうか」  不満げに頬をふくらませる顔を、目の輝きが裏切っている。滝に対するとき、常に我儘な態度や反撥の中に、獰猛な仔豹のような全身でもたれかかる甘えをひそめている良である。  滝がマネージャーとして、大体、一緒に行動するようになってから、良のようすから、拗ねた子供のような手におえなさがいくぶん影をひそめていた。  そんな良を見ていると、滝の中に、耐えがたいほど甘い有毒な惑溺が再びつのってくる。 (良は、おれを頼っている。良はおれのものだ──|まだ《ヽヽ》、この美しい生物は、すっかりおれのものだ)  滝には、心をいやし欲望を満たしてくれるミミという情人がおり、良には、山下国夫がいる。  山下は滝がマネになってから監督がきびしくなり、前ほど自由に連れ歩けなくなったのがだいぶ不満のようだが、その分他の相手のことも苦にする必要がなくなって、いくらか落着いていた。  だが他にも良を美しい人形のように連れて遊び歩きたい人間はずいぶんいる。そんな、互いに夾雑物の決してなくならない関係でありながら、滝と良のあいだには、他の人間のうかがい知ることのできない、たぶんに錯綜した、しかしまたそれだけに強いいりくんだ心の絆があった。  それは、父と息子、兄と弟、信者と巫女、商人と商品、夫と妻、愛人どうし、のあらゆる葛藤を既にして内にひそめている関係なのである。滝の良に対する感情、良の滝に対する思いはたえずそのバランスを変えて流動していた。  ただたしかなことがあるとすれば、とこのごろになってひとり滝は考えることがある。  それは、おれと良とがもはや互いに切りはなしがたく結びつけられているということだ。そして愛するにせよ憎むにせよ、その底で、おれが良をかけがえのない生命のように思い、良が、 (いつも最後には滝さんが何もかもよくしてくれる)  と思っていることだ。  良は、あっというまにかれを巻きこんだ竜巻にも似た運命の激潮に、大抵のとき、あらがおうとはしなかった。  その従順さは、はじめは──そしていまでもいくらかは、自分がどうなるものか、黙って見ていようという冷やかな、つきはなした心持だけだったかもしれないが、あとからはたしかに、滝がよいようにしてくれるのだという無防備な信頼がまざりこんできている。  良の内には一種野生動物を思わせる無感動さと、激烈な拒否をその芯に隠した従順さとがあり、それらは良をじきに≪スター≫というこの特別な運命に狎れさせた。  良がどこを歩いていようと、どこに座ろうと、きっとキャーッと叫びながら少女たちがかけよって来、しばしばサインを求め少しでもさわろうという黒山の人だかりが行動をさまたげる。  巡業に行くさきざきの駅では、どうかぎつけるものか、それが深夜であろうと、早朝であろうと、後援会ののぼりを立てて熱狂的ファンが待ちうけている。プロダクションあてにたえずプレゼントが届き、ファン・レターから必ず名が売れるとつきものの脅迫状だの淫らな手紙、ねだりがましいものまでが毎日山積みになる。  こんなことは正常ではないとか、これからさきのこと、見ようによっては実に明日のない、戦いに酷似した籠の中のハツカネズミの日々への不安などを、一切良は知らないようだった。  どこにいても、誰に囲まれていても、良は良であり、きれいで、冷たいうっとりした目をしていて、そこにいるのがとても自然なくせにどこかでなぜ自分はこうしているのか、少しいぶかしんでいるように見えた。  我儘で、打ちとけなくて、甘ったれで、面倒くさがりで、高慢で、どこか稚い少年だ。この、決して性質がよいとか、聡明であるとかは云いがたい少年を、しかし、いかにも美しくしているのもまた、良のそうした自然さ、我儘ではあってもいやみではなく、高慢であってもスターを鼻にかけてではなく、いわば人々の愛の中で存分にまどろむことだけを望んでいるような、奇妙な──云ってみれば、野心のなさ、自らの意志の欠如にほかならなかった。  だからこそたくさんの人びとが良を愛しているのだ。と、この回のステージのおわったらしく、波のようにうねって押し寄せてくる拍手と歓声を楽屋裏でききながら滝は考えていた。  特に少女たちだ。彼女たちはいつでも用心深い。少しでも、自分を圧倒しひきずっていってしまいそうなたけだけしい性や強烈な意志力やぎらぎらした野心がうかがえるものには、彼女たちは恐れを抱く。  それにこっそりひかれており、いずれはそこへひきずりこまれることを予期しているからこそ、よけい恐れるのだ。そうしたものはすべて少女の中にひっそりひそめているセンチメンタリズム、レースや花や美しい音楽や星々や、王子と王女、そんなもろく甘いものを砕き去ってしまいそうなのだ。  だからこそ、彼女たちは、安んじて早春の恋の熱狂をさがす。性もない、野望もない、ひたすら美しく哀しい清らかな夢をさがす。むかし、本のさしえや人形の上に描いていたのと同じ夢を、ただもう少し現実の中に──そして、そのために、良──≪ジョニー≫ほどふさわしいものがあったろうか。  ジョニーという甘いひびきの名をもつそのアイドルは、少女のような肢体と目と顔を持ち、きらびやかなレースやアクセサリーにつつまれて恋の歌をうたう人形にほかならない。ほのかな背徳の、光輝を秘めた翳のたゆたい、それをもいとわしくは思わせないだけの美しさと清らかさの幻影も良は持っている。 (ジョニー!) (ジョニー!)  そう絶叫して押し寄せることは、現実から背をむけて自らの夢想の中にかぎりなく身をゆだねてゆくことである。  良を選ぶ少女たちはおそらくあまりにも真面目で、あまりにも用心深くて、あまりにも心やさしい内気な──そしておそらく恵まれないゆえにいっそう夢を愛する少女たちなのだった。彼女たちは、誰からも愛され、憧れられ、そして欲望を抱かれる良の内に、ひそかに自らをうつし植えるのにちがいなかった。  たぶん彼女たちの得る愛はあまりにもささやかでみすぼらしく、彼女たちを取り巻く欲望はあまりにもむきつけで優雅でない、下宿の四畳半や藪蚊のいる路地裏や、無経験なあわただしさ、時にやさしいとはいえ多くはあまりにみじめにおわるそれでしかなかったからだ。  良をほとんど故意にスキャンダルに取り巻かせた滝の計算は正しかったと見えた。年上の女たち──時に、それはほのめかし程度だとはいえ、男たちも──の欲望は、良を汚すよりはいっそう輝かせるようだった。  人形は汚されない。欲望は、その対象が、望まれるだけの価値ある存在だという生きた証明なのだ。いつでも、最も目立たない、恵まれない底辺の少女たちの内に最も解放への憬れに満ちた思慕が宿っているのだった。 「お疲れさん」 「お疲れさん、よかったよ」 「最高、ジョニー」  まだ幕の向うではジョニー、良ちゃん、と呼ぶ声がいくつかきこえていたが、ショーはおわり、みるみる客席から潮のひくように少女たちが立ってゆく気配が、つたわってくるようだった。一夜の夢、豪勢な数時間の饗宴のおわりだ。 「ああ、参ったなあ」  出迎える付人たちにひきむしるようにしてブレスレットをとって渡しながら良は云った。ゆるやかにカールしている暗褐色の髪が、雨にあったように濡れてしおたれている。  ライトをあび、たったひとりで三時間、三回の衣装更えの他に休みもなく歌い踊るのは、若い良にも大変な重労働なのだ。出のときは、青くアイ・シャドウをつけ、ドーランをぬり、口紅を少しつけてきれいにととのえる顔も、ぐっしょりと汗に濡れてすっかり化粧が落ちていた。  もっとも、目が輝き、頬に血の色が去らず、まだ肩で息をしているたかぶった顔は鮮かになまめいて、化粧のとれたことを感じさせなかった。 「うわあ、すごい汗」 「まだ、暑いよ、ライトは」 「早くシャワーあびてこいよ、風邪ひくから」 「うん」  どうだった? と問いかけるまなざしで、良は滝を見た。いつでも、滝の讃辞を欲しがる良である。 「明日で打ちあげか。よく入ったよ」  滝は焦らすように云った。 「きょうちょっと出だしの方で、オケが全体に早目だったろう。少し歌いにくそうだったな──『ガラスの天使』から、落着いたよ」 「うん、あれはね」  チョーカーをはずして貰い、もどかしそうにサッシュをほどき、肩のブローチをとって、ゆるやかに身もだえすると、ふわりとピンク色のちかちか光る靄は白いほっそりしたからだから落ちた。  あわててそれを拾いとって、清がいくぶんまぶしげな表情になる。ついてから一年以上になるのに、いまだにこの若者は良の裸身に狎れることができないらしい。清のさしだすバス・タオルを手で押さえて、そちらには何の注意も払わずに良は云った。 「失敗しちゃったよ。──『アモール』から長い大曲が三つつづくでしょう。きのうはじめの方をゆっくりやったら、そっちのへんで息切れしちゃってね。それにダレるんじゃないかってMDが云うから、大石さんと打ちあわせて前半少しアップ・テンポで流そうって云ったんだ。──やっぱり、だめだね、二日めがいちばんバランスはうまくいったんだけどなあ」  やけのように、汗で濡れた頭をこすりながら良は笑った。ワンマン・ショーももうすっかり馴れて、風格のようなものさえ感じられる。 「ねえ、山下先生来てた?」 「どうかな、見なかった。いないみたいだな。なんでだ、また約束してるのか?」 「ちがうよ、ここんとこ、何か少し機嫌わるいみたいだったから。こんどのショーで、ミュージカル・ディレクターを加賀さんに頼んだって気に入らないの、わかってんだ」 「やれやれ、そういつもいつもってわけにゃ、いくまいに」  滝は笑った。 「加賀氏と大石ちゃんのコンビは、いいみたいじゃないか」 「そうね、やりやすいな」  大石勝とジョーカーズは、日本のオーケストラで五指に入るフルバンドで、公共放送の歌合戦にずっと伴奏をつとめている名門だが、バン・マスの大石が白井みゆきと一時恋仲だった縁もあって、今年に入って数回の、良の大きなステージには残らずバックをつとめてくれていた。 「さあ、早く汗流して、着更えてこいよ、九時までにあけてくれって云われた。何か、アマ・オケの練習に貸してるんだとさ」 「オーケイ」  良がシャワー室へ消えると、良の専用の楽屋の中は口数少なく片付けものをしている清と、用ありげにうろうろしている記者連中の二、三人だけになった。  渡辺は、滝が専属マネについて運転手もほとんどつとめているようになったので、プロの事務所で良専用の事務をとるように変っている。  さっきまでしきりに楽屋をうろついては良に何か手渡したりおりあらばの風情だったファンたちも楽器運びの邪魔だと追っ払われたらしい。 「おい、三田ちゃん、いまの書くなよ」  手帳をのぞいて何か書きこんでいた滝がふと顔をあげて、仲のいい記者に笑った。 「──と滝マネージャーは云った、と」 「かなわんね」  いくらかくずれた風体で、どことなく滝と同類の匂いのする芸能記者は滝にウインクした。 「きょうモリプロの桐生が来てたよ、知ってた?」 「さあ、あっちこっちから見に来るからな、いちいち知らんよ」 「余裕あるなあ。そりゃ、ジョニーのステージはいまや各プロの注目の的だけどさ──じっと見つめて、しきりにメモをとってたね、食いつくような目で。あのオリエント調こんどまさみにでもやらす気じゃねェかって、ノムちゃんと云ってたんだけどさ」 「そりゃひでえ。ありゃ、ジョニーだからいいんだよ。あのばんだい面のまさみがアイ・シャドウつけて、チュールなんてかぶってみろ、化けもんだ」  連れの野々村が顔をしかめる。 「ジョニーだからいいんだよ」 「ご贔屓に」  滝はひょいと頭をさげてみせた。 「それとも、そりゃ、今夜一杯飲ませろって、謎かな」 「滝ちゃんは話せるなあ」 「いえいえ、マスコミの方にはとにかく低姿勢があたしのモットーでしてね。何でも御意のままで」  滝はふと調子を変えた。 「ところで、さっき、ネタ屋の村田があまり見かけん若いのを連れて来てたが、あれ、知ってるかい」 「日東さんのデータマンかね」 「松田君と云ってたみたいだが、別に取材でもなさそうだったがね」 「じゃきっと松田光男だろう。例の三木とぶつかってジャーナルをとび出した。こんどフリーになるってきいてたよ。何か?」 「そらまた商売気出して。おれは、単に、顔を見たらどこの誰か知っときたいだけさ。それに大した話もしてなかったよ」 「商売気出してるの滝ちゃんじゃない。──それよか、さっきの話だがねえ、まだだめ?」 「山下氏? そりゃ困る」 「ノムさんが『芸能』から『ライト』の方へうつったってきいただろ。手土産にさあ──なにせいま、どんなことでもジョニーと出りゃ、それで倍はかたいんだから」 「あんたらは不仲説で済ましてくれんからいやだよ」 「三田ちゃんは多少ジョニーに岡惚れだってさ。何かというと、ジョニーをいびりたがってさ」 「あれっ、ノムさん、あんたそりゃないよ、裏切る気」 「まあまあおれの前で仲間割れなんかして、弱味を見せるもんじゃないよ」  滝はにやにやした。 「待ってなさいよ。ちょっと考えれば、手頃な話が見つかるだろう」 「流してくれる? そりゃありがたいな」 「こっちも、ケーコタン以来夏枯れだからな。まあこういうことは、これで相談しようじゃないの」  滝は一杯やる手付きをしてみせた。 「外で待っててくれよ、九時には全員あがる」 「わかった」 「キヨちゃん、あんた良を送ってくれるだろ」 「はい」  清は何もきいていないように黙々と楽譜を片付けていたが、ゆっくりふりむいて、ひとえの無表情な目で滝を見あげた。 「あいつにごまかされるなよ」  記者たちが室を出るのを待って滝は云った。 「あいつもワルだからな──すぐ目をはなすとひとを丸めこんで羽根をのばすから」 「このごろそうでもありませんよ」  重い口で清は良を弁護した。何を考えているのか、人にのぞかせない一見鈍重な若者だが、やはり良にいかれているらしいと滝は思っている。  黙々としてスーツケースをはこび、楽譜をそろえ、衣装を片付けているが、良の世話をする手つきに、無骨ないつくしみがこもっているようで、ほとんどこわれものでも扱うようにうやうやしい。  どうせ例の気まぐれで良の奴が色目の効果をためしたり、ふいにやさしくして、すぐ飽きてやめたりしているんだろう、と、その気まぐれな心をすっかりおのれの掌中にしているものの優越感でもって滝は考えたが、さしもの滝の炯眼も、感情をみせぬ清を内側からどんな火が、どんな苦しさがそのたびにじりじりと責めさいなむだろうか、とまでは予想がつかなかった。 「ああ、さっぱりした」  滝がつづけて何か云おうとしたときシャワーをあびて着更えた良が出てきて、それきりになった。  良は白地に何かプリントのあるTシャツの上に地薄なデニムのジャンパーをひっかけ、色あせて破れたジーンズをはいていた。髪が濡れて輝いている。 「もういいのか、そろそろ出るよ」 「うん」 「おれはちょっと寄っていくからな。清に送って貰えよ」 「どこへ行くの」  良が少しからんだ。そういう権利はないことがわかっているから、それにそんなたちでもないので一度もはっきりと云いはしないが、何となく、自分の付合いは棚にあげて滝のミミとのことをいい気持は持っていない良である。 「『ライト』の連中とな」  滝がかんたんに答えると良はすっと機嫌を直したくせにまだ何となく含んだ表情を作って彼を見あげ、そばに寄ってきた。 「じゃ飲むんでしょう。つまんないなぼく──たまには、ぼくも連れてってやろうなんて気にならないのかな。考えてみたら滝さんなんてぼくを飲みに連れてってくれたことなんて全然ないじゃない」 「古女房みたいなことを云うなよ」  滝が揶揄すると、とたんに良は真赤になって怒った顔で清を気にした。清は黙って待っている。 「お前はまだガキだからな。成人式をすぎたら、大っぴらに連れてってやるよ。それまではおれは保護者としちゃ、そういうわけにいかないね」 「ちぇ、十八ったらもう成人映画見られるんだから」 「さあ、行くぞ、もう」 「ねえ、滝さん」  滝について歩き出しながら、良は何かねだるときの甘え声を出した。うしろからスーツケースと楽譜入れを持ってついてくる清のことなどは眼中にない。 「何だ、小づかいか」 「やだなあ──ねえ、明日ねえ」 「ああ?」 「白井先生がさ──ショー打ちあげだから、うちへいらっしゃいって云うんだけど」 「会ったのか?」 「ううん、この前先生のところの人と偶然会ったら、伝言で」  嘘をついているときの、妙に生き生きした口調で良は云った。 「打ちあげパーティーしてくれるって、内輪で」 「だが、八時半に打ちあげてから、スタッフで乾杯するから、どうせそのあとどこかへくりこむって話になると思うぞ。主役がおらんとどうも──」 「だってさ」  楽屋口を出るなり、待ちうけていた熱心なファンたちがわあっと押し寄せてきた。 「ジョニー、すてき」 「ジョニー」 「こっちむいて」 「サインして」 「ちょっと通して下さい。ちょっと、あけて下さい」  清があわてて前にまわって荷物で押しのけるが、少女たちはサインブックや花をさしだしてつぶさんばかりにつめかけてくる。 「ジョニー、がんばって」 「明日も絶対くるから」  中には、毎日必ず行き帰りに、よほど前から待っているらしくいい場所を陣どっているので、すでに顔を知っている少女もいる。良はにこりとした。キャーッと少女たちがわめく。 「かわいいー」 「ありがとう。フリージャ? いい匂いだね」 「わあ、あたしのも見てよ、ずるゥい」 「ジョニー、ねえ、こっちむいて」 「もう九時すぎだろ。帰んないと、おそくなるよ」  良はさしだされるサインブックにさらさらとペンを走らせながら見まわして云った。 「ちょっと通して下さい。ちょっと急ぐんで通して下さい」  清は声をからしている。滝は放っておけばきりのない良の肩に手をまわし、押すようにして道をあけて、良を車の方へ押しやった。 「ほどほどにしとけよ」 「ファン・サービス、ファン・サービス」 「じゃ、おれは行くからな」 「ねえ明日のこと」 「考えとこう。情勢しだいでな──たぶん慰労パーティーって話になるぞ」 「だってそれこそ──未成年だからって」 「ばか、おれまでお前の我儘の片棒かつげるか」 「ちぇ──じゃキヨちゃんとどっかで晩飯食ってから帰るから、滝さんもあんまりおそくならないでね」 「清、おれの車使っていいぞ。おれはそっちのクラウンで行く」 「飲むんでしょう。あとでおれが迎えに行きましょうか」 「いいよ、心配するな。じゃ、頼んだよ」  滝は良が車におさまって、清の発車させるのを見届けてから、裏口近くで待っているはずの記者たちをさがしに行った。記者、カメラマン、スタッフたちには、事情のゆるすかぎり付合って、気心を知っておくのも滝の仕事の大きな部分である。 「ちぇ、どうせまたおそいんだ」  良は走りすぎる車の窓から、その滝の長身を見送って口をとがらした。 「キヨちゃん、どっかで飯食っていこうよ」 「どこでも」 「ねえ、青山へまわしてくれないかな」 「『ミモザ』ですか。だめですよ、まっすぐ帰るって云ったんでしょう」 「きっと佐伯さんかおねえさんか、松浦先生か、誰かいるよ」 「明日飲むんでしょう」 「ちぇ、買収されやがって」  清の顔がぴくりとした。良はちろりとそれをうかがい、泣き落しの手を使おうかな、どうするかな、と少し迷ってから、つまらなそうにシートにひっくりかえった。 「じゃ帰るよ」 「食事は」 「いい」  だめだとなると良の態度は傲慢なくらいそっけない。 「うちでするよ」  ちらりと清を見て云いついだようすはいくぶん、うたぐられるのを恐れているようにも見えた。 「きのうの残りのシチューがあるから。滝さんなんてあんな人でけっこうお料理なんかまめにつくるし、うまいのね。笑っちゃうよ、まったく」 「なんでです」  清は大真面目だ。良はまた小さく舌打ちして、相手にしてられねえや、と決めた。 (なんだ、面白くもない──いまはじまったことじゃないけどさ……カッペを、相手にしちゃいられないさ)  うしろの座席をひとりで占領して、のびあがったり、窓から外をのぞいたり、爪をかじったり、ちょっとの間もじっとしていない良である。頭のどこかがたえず滝のことを考えている。  滝のしていることは、半分は良にはまるきりわからない。あとになってああそうかと思いあたることもあるが、まず滝が何を考え、どういう方針で仕事をとったり、布石をしたり、宣伝活動のプランを進めるのかは八分どおり云ってはくれないし、実のところそれほど知りたいとは思っていない。どうせ、滝の云うとおりにしていればまちがいはないのだ。  しかし、滝が≪大人≫だからということとは別に、良は、ひそかに、かれのためにすべてしていることなのに、滝の、良のための仕事、すっかり滝をとらえてしまっている良には教えてくれない籠絡や付合いや商取引や、賭けやアイデアに、嫉妬していた。  ミミよりも、かえってそっちが、良を苛々させるのは奇妙なことである。良は、滝がいくら自分のことを考え、自分のために奔走し、つまりは良の方をむいていてくれても、まだ充分ではない、もっと自分のことだけに関心を持って欲しい、もっと、もっと、という気持がするのだった。  良には正直云って滝のしていることがわからないし、滝が多少恐ろしくもあるし、滝は顔さえ見れば早くしろの、しゃんとしろのと小言ばかり云うのだが、そうであればあるほど、良はたえず滝の関心と愛情と注目とを独占していることを、たしかめずにはいられない、気持になるのである。マンションについて、清がまわってきてドアをあけるまで、良はほとんど清の存在も忘れていた。  清に荷物を持たせて、エレベーターで三階にあがる。鉄のドアの上の隙間から鍵をさがして、あけると、良は清をふりかえった。 「ねえ、いっしょに食ってく? 二人分、あるかどうか、わかんないけどさ」 「いいです」 「ちぇ、もうちょっと云い方があるだろう。あ、わるいなあ、それついでにしまってってよ。いい子だから」  ジャケットを放りすて、清に荷物を片付けさせながら良は気まぐれに一枚のレコードを選んでプレーヤーにのせた。 「もうおそいんですよ」 「滝さんの真似するなよ」  大きな音で、たちまち部屋を満たしたロックの、それでもいくらかボリュームをしぼって、リズムにあわせてからだをゆすりながらつっけんどんに良は云った。  人を見くびるたちのわるいところのある良は、気のむいたときには云うとおりに動くようにしようと悩ましげな顔をして見せるくせに、腹の中では鈍重な田舎青年のもっさりとした清を員数外に見なしているので、清が二人きりでマンションの壁の中にいるのを何となくこわばった肩に意識していることを見せて、良のしなやかで色っぽい身のこなしを見ないようにしていることなど、気がつきもしなかった。 「これでいいでしょう。じゃ帰りますから」 「うん。じゃあね」  食事に誘ったのは煙幕で、実のところ承知されては迷惑だから、良の態度はじゃけんなくらい、そっけない。清がちらりと暗い視線を、目を閉じて身をくねらせてロックのリズムにあわせているほっそりした姿にむけて、急いで出ていき、がちゃりと閉ざされたドアの向うでエレベーターの動く音がかすかにロックの喧騒の中からきこえてくると、いきなり踊りをやめて電話にとびついた。呼び出し音をききながら、コードをひっぱって、窓際へより、カーテンをかきわけて下をうかがう。 「もしもし──あ、先生」 「良か。どこだい、いま」  嬉しげな声がきこえてきた。 「何だ、やかましいな」 「ちょっと待ってよ」  清が下の通りに姿を見せて、滝の車はガレージに入れたまま、いくぶん猫背のうしろ姿を見せて歩いてゆくのを見届けたので、受話器をおいて急いでステレオの電源を切った。 「もしもし」 「ああ、どこにいるんだ、いま。ディスコかい?」 「ちがう、うちだよ」 「ひとりか?」 「うん」 「滝は?」 「飲みに行っちゃった」 「仕事済んだのか」 「うん、いま帰ったとこ。腹ぺこなんだけどさ、何もないんだ」 「そうか、そりゃひどいな。おいてきぼり、くったのか。よし、わかった。すぐ車持っていくよ」 「うん」 「何でも食わせてやるよ。どこがいいか、決めとくといいよ」 「うん、久しぶりだね、先生と会うの」 「ああ──そうだったな。おれは、良のことばかり考えてるのにさ──良が、意地悪をするからだよ」 「そんなこと云ってないでさあ」 「ああ、すぐ行くよ。ふっとばして、五分で行く。待っといで」  山下の声には、おさえきれぬ嬉しさがこもっていた。実のところこの日東劇場の一週間のワンマン・ショーの構成を、新進気鋭の加賀正彦にまかせるとスタッフが決めたのを、良が反対しなかったといって根に持っていたのもあるが、その前に、白井みゆきとデートして、それが嘘をついていたとばれたので、こんどこそ滝に云うぞと嫉妬半分で山下が騒ぎたてたのが、喧嘩の原因だ。  滝には山下と会うと云い、山下には滝がうるさくて出られなくなったと云ったのである。  だんだん山下の嫉妬がしつこくなって、うるさくてたまらなかったおりでもあり、少しこらしめてやろうとこれで一週間ばかり、放っておいた。  向うも意地になっていたらしいが、良から電話をかけてきたので、たちまちバターのように溶けてしまった表情が、見えるようである。良はベッドにごろりところがって、退屈そうに目を閉じた。  山下がうるさいから、そのうちにチッキにして送り出してしまおうとはたびたび思うが、何でも唯々諾々の便利さに、あとでいい、いまでなくてもかまうまい、どうせ指さきの自由になるのだし、何でも買ってくれ、何でもやってくれるあいだは存分に利用すればいいじゃないかという、稚い思案でわるぶって、結局ずるずると一年以上もつづいてしまっていた。  こうした関係のひそめている危険に気づくほど、世の中を知ってはいない。自制心とか、自ら律する意志力といったものがまるでなくて、何でも思いどおりにしたい気持を滝のきびしい意志と制御の下におさえている良にとって、山下はたやすい相手だった。  それに、もともと、すでに少なくない数の男女がそのからだを通りすぎていながら、性に関しては漠然とした嫌悪と冷淡さだけで、ほとんど自らの内に欲望を見出さない良には、その屈従の代償に山下の要求するものは、ただ一刻のあいだおとなしくなされるままになればよいだけなのが気が楽でいい。  おそらくどこかに稚いというよりは心の不具な部分があって──それは、父を早くに失くし、二度目の父と、たえずちがう若い男を相手にしている母とのあいだに争いと暴力のたえまがない、義父は良を手なずけてスパイに使おうとし、母は廊下で良に見張らせておいて病身の妹のところにくる医師だとか、八百屋の御用聞きだとか、先父の弟だとかとの情事にあられもない声をはりあげる、というような稚い日がつちかったものだったろうが──女、とりわけ女の欲望というものを良は内心吐気がするほど嫌っていた。  といって男の欲望をうけ、そのからだを犯されることには、深刻な恐怖がある。そのことにはあまりにも残酷な苦痛な思い出しかなかった。その点、山下は、良のいやがることはする勇気がないのでいい。 (もうちょっと見ばえがよかったら、もう少しやさしくしてやってもいいけどな)  外で、車のとまる音がした。良は動かず、わるいことを考えてにやにやしていた。  山下は肥りじしで厚ぼったい眼鏡をかけ、脂ぎった大きな顔をして、いい服を着ていてもひきたたない。自分の引立役としてはいいが、良の残酷な見栄は、洒脱なところのない山下には自分が勿体ない、という気がするのだ。  その点でも滝はいい。滝は、長身で穏和な風貌の男だ。サングラス、服の好み、目の鋭さ、たしかにかたぎには見えないが、その分世馴れて、小粋なところがある。 「いま行くよ」  ひとのわるいことを考えていた良は、チャイムを鳴らされてあわててベッドからはね起きた。 「だめじゃないか、云ったでしょ、チャイム鳴らすと、となりにきこえるよ。滝さんにばれたら──あ」  のっけから文句を云い立てた良のからだをいきなり抱きすくめて、山下は唇を求めた。一週間のお預けのあとである。呼吸が荒く、すでに欲望に目が血走っていた。 「はなしてよ」 「会いたくって、気が狂いそうだったんだよ」  山下は鼻孔をひろげ、激しい呼吸をしながら、良の手をつかんで、固く結節した欲望に押しつけた。 「もう──こんなだよ」 「やめてよ」  良は怒った。 「そんなんで呼んだんじゃないのに」 「滝は、いないんだろう? な、良、いっぺんだけでいいから──」  山下は良を抱きあげて、奥の寝室へ運びこもうとする。 「いやだってば」 「そんなこと云わないでさ。な?」 「いやだよ」  良はベッドに投げ出され、おおいかぶさってくる山下をはねのけようとあばれた。 「ここでそんなことしないで──ここじゃ、いやだ、ぼく」 「滝の奴に──義理立てか」 「またそんなことを云う。しつこいなあ、とにかくここじゃいや、そんならあとで先生んちに行くから、まずぼくの云うこときいてよ」 「まだお預けくわすのか?」  山下は恨めしそうに良の頬を愛撫しながら云った。 「ひどいじゃないか」 「ねえ、お願い」  面倒になってきて、良はとっておきの甘えた哀願する声を出した。山下はとろとろとなった。 「ぼく滝さん帰るまでに帰っていたいんだよ」 「わかったよ。じゃあとでうちに来るだろう? 飯、まだか」 「うん。どこでもいい」 「よし、じゃ、行こう。久しぶりだから、うんとご馳走してやるよ。それに、何か、欲しいもの、ないのか?」 「うん」  すでに、それも、良は用意していた。 「こないだすごいすてきなセーター見つけたけど、滝さん、必要ないなんて。イタリアんでねえ、こーんな大きな模様で英語と花が線描きで出て、とってもいいの。ベージュに濃茶と白で、すてきなんだけどな」 「じゃそれ買ってやるよ」 「ちょっと高いの。二万五千円だって」 「いいさ、久しぶりだ」 「サンキュ──『ル・ブラン』のウインドーに出てたの。嬉しいな」  良は無責任に山下にとびついて頭をこすりつけた。 「だから先生って大好きさ、ぼく。何でもきいてくれるから」 [#改ページ]     14 「良──」  ベッドランプひとつを残した濃い闇の中に、先刻までの快楽の熱気が、まだ余韻をひいて漂っていることが感じられた。  おぼろげなあかりに疲れたきれいな横顔を見せて、良は目を閉じていた。長い睫毛が、白い頬にくっきりと影を落し、汗ばんだ顔は男の肩にものうげにもたせかけられている。 「良……」 「なに」  いくぶん、うるさそうに、良は云った。目は開かない。端麗な冷たい顔を、じっと見つめる山下のまなざしには、何か呪縛され、悩みに満ちた、悲しげなうつろさがあった。 「おれを、苛めないでくれ。頼むよ」 「うるさいなあ」  こんどは良ははっきりと苛立って、寝がえりを打ち、目を開いた。茶色の感情のない目が男を見かえす。 「何苛めたって云うの」 「おれは、苦しいんだよ」  勝手に苦しんでいろ、と良の目が云っている。良は泣きごとが嫌いだった。弱い人間も嫌いだ。 「きみは、おれの話を、まともにきこうとした、ことがない」 「ぼくに何をきけっていうの。何だって、云うとおりにしてるじゃないか」 「この一週間──どんな気持ですごしてたと思うんだ?」 「仲直りしたんだもの、いいじゃないの──あのセーター早く着てみたいな」  良は声に媚びる調子をひそませた。だが、珍しく、山下はその手に乗ってこなかった。 「おれは苦しいよ」  もういちど彼は云った。 「この一週間、いろいろ、ああでもない、こうでもない、考えっぱなしだ。急がされてたエミリーの新曲にも手もつけられない」  うるさいな、と良は焦れた。良は山下の心にも、その生活にも、興味はなかった。 「なあ、良──いっぺんでいい。きくだけでいい……きいてくれよ。おれは、どうしていいかわからない、自分がわからないんだよ。おれはこれまでいっぺんだって、こんなふうに気が狂いそうな気持になんか、なったことがないのに──おれは、苦しかったよ、この一週間、気が狂いそうだった。良のいる日東劇場の方へ行こうとしちゃやめたり、電話をかけちゃ出る前に切ったり、──もう、きみはおれをすててしまうんだと思った。もういちど、こうできるなんて、思いもしなかったよ」 「もう、いいよ、そんなこと」 「よくないよ」  山下の声には、奴隷があるじをうかがいながらも、今日こそはごまかされないぞ、と決意したような、いつにない調子があった。 「おれは考えてたんだ。──いったい、おれはどうなっちまうのか、ってね。このまんまの状態がつづいて、おれはどうなるのか、きみはどうなるのか、こんなことをしていて、いったい、いいのかどうか──」 「じゃ、やめたら? ぼくがしたくって、こんなことしてるんじゃないよ」 「苛めないでくれ。お願いだ」  山下はくりかえした。 「おれの云うことを、誤解しないでくれ。良が、可愛いんだよ。どうしていいかわからないくらいだ──だのに……だのにきみはちっともおれを好いてくれない」 「先生は、好きだよ、ぼくの云うこときいてくれるもの」 「良!」  山下は喘いだ。 「頼む。真面目にきいてくれ」 「どうしたのよ。ぼくは真面目だよ──なんだか、変だね、今日の先生──こないだのこと、まだ怒ってるんでしょう」 「あんなことは──あれだけなら、どうだっていい」 「やっぱりまだ怒ってるんだ。ねえ、先生、ほんとにぼく別に何もしてやしないよ。あのときは、みんな一緒だったんだし、先生の考えるみたいないやらしいことなんか、何もないのに──あんまり、邪推すると、ぼくもう先生のこといやになるかもしれないよ」 「そんなことを云うなよ」  山下の声は、良でさえ、まばたきをして山下の顔をのぞきこんだぐらい、悲しげにきこえた。 「おれが──どんなに良を可愛いと思ってるか、信じたいか、信じてきたか、良は知っているはずだよ。だが、もう信じられない。信じたいのに、信じられない。おれは、どうすればいいのか、わからない」 「何でそんなこと云うの」 「わかってるはずだよ。おれはずっと考えてた」  山下の手が良の肩にまわって、はなしたら失いはしないかとおののくように、激しく抱きしめた。良は身をもがいたが、はなさぬと見て、静かになった。 「おれはきみが可愛い。素直でやさしい、心のきれいないい子だと思ってきた。そう信じたい──嘘ばかりつく、おれを少しも好いてくれないわるい子だなんて、思いたくないよ」  良は形勢不利と見て、たちまち黙りこくってしまった。猫のように目が光りはじめる。山下は何度も良を抱きしめ、頬ずりした。 「金がどうこうなんて云いやしないんだ。きみのために、百万だって、二百万だって、良が欲しがるんなら、いくら使ったって惜しかない。それにおれはこのところ入ってきてる金なんて、良の曲の印税なんだから、良の金と同じなんだよ。そんなもの、惜しいと思ったことはいっぺんもない。おれは良のよろこぶ顔さえ見てれば嬉しいんだ」 「……」 「だけど──きみは、──おれは信じたくなかったよ。だけどもう知らないわけにいかない。きみは、いつだって、おれに嘘ばかりついてるじゃないか。滝がうるさいから、仕事があるから、用ができたから──そう云っちゃ、きみは、いろんな奴と……」 「そんなの先生の邪推だよ。ぼくそんなことしてない」 「そんな、メスブタだの、そいつの燕だのと、良が寝てるなんて云ってるんじゃない」  再び山下は、良の魂ですらわななくくらい、悲しそうな声を出した。  良は鼻白んで、何を、誰がばらしやがったんだろう、と考えた。マリーズのユミと寝たことかな。でもあれは向うがしつこく誘ったんで、いっぺんきりで飽きた。  歌うスターの高村正との情事か。あれは滝がマネになる前で、番組で共演したあと誘われた。しつこい男で、どうしてもいたいめにあわそうとし、泣きわめいてやったら諦めたが、もうこりごりだった。高村はしばらくのあいだ電話をかけてきて、滝に問いつめられたので白状したら、滝が何か手きびしいことを云って追っ払ってくれたらしい。  滝に売られた相手は別としても、美人DJの玉水さよ子、後援会員でデザイナーの立花レイ、無頼派作家の松崎三郎、やくざスターの石森達雄──みな、一回か二回以上は会っていない。  そんな気まぐれや成行きまかせの出来事まで、実は滝がすべて見とおしだとまでは良は想像もつかなかったが、どのみち味方につけたつもりの渡辺は全部知っているので、渡辺が山下に何か洩らしたのだろうかと勘ぐった。  しかしそれだって、滝が専属マネになり、渡辺が事務所詰になるまでのことだ。そのあとは滝が目を光らしていて、そういう行きあたりばったりの関係はほとんどご法度になっている。  云われるすじあいはないや、と良は決めた。いまだにつづいているのは佐伯と、それに比較的最近にそうなった白井みゆきとの関係だけだが、山下はそれを云うのではなさそうだ。 「良はまだ子供だ。良が、そんな、ドン・ファンの真似ごとをしてるとか云うんじゃないよ」  山下は夢にも知らずにつづけた。 「良はきっと、誘ってくれればわるいからと思ってついていくし、食事したり、ドライブしたりするだけならなにもわるいことなんかないじゃないかって思ってるんだろう。良は、やさしいから、断りきれないんだ。そうだろう?」 「……」  良はあいまいな顔をした。山下は良のなめらかな頬に額をすりつけた。 「でも──おれが苦しむことは……きみは知ってたはずだ。おれがきみを独占したくて、どうしていいかわからない──どんなことでもしようとして一生懸命なことは。だのにきみは──きみは嘘をついてまで、そんないいかげんなやつらと遊び歩きたいのか? きみ──きみに必要なのは、おれの金と何でも云うことをきいてくれるからってだけなのか? だからきみはおれがきみを抱くのを我慢して、利用してただけか?」 「ねえ、先生」  良はたまりかねたような声を出した。 「変なこと云わないでよ。ぼくはそんなに欲張りでもなけりゃ、ホステスかなんかみたいなんでもないよ。金、金って、ねえ、先生、ぼく別にそんなら先生が何もくれなくたって、これまでくれたものみんなかえしたって、ちっとも、何とも思やしないよ。やっぱり先生お金が惜しくなったんじゃないか。そんな云いがかりつけられるの、ぼく、嫌だよ」 「わるかったよ。金のことはもう云わない」  あわてて山下は譲歩した。 「だが──じゃあきみは、おれにどうしろっていうんだ──どうすれば、おれのものになってくれるんだ? きみはおれが何か云うと、やきもちは嫌いだとか、うるさくするなと云って、真面目にきいてくれないじゃないか。おれはただ、きみの云うなりに何でもしてやって、何でもきいてやるでくのぼうでいればいいのか? おれは苦しいんだよ──こんなことをしていたら、おれは気が狂っちまう。いったいどうしたら、きみはおれのものになってくれるんだ」 「そんなこと云ったって──はじめは、先生だって、いつもみたいな遊びのつもりだったんじゃないの。ぼく、知ってるよ──覚えてるよ、先生が、おれの云うことをきかないなら、曲をひきあげてお前のデビューもパーだし、こんなことはこの世界では常識だ、当り前なんだ、って云ったの。それを──」 「はじめは、そうだった。それは、しようがないじゃないか?」  山下は恨めしそうに云った。 「そんなことで、いまさらおれを苛めるのか? はじめは、そりゃ、いつもの味見《ヽヽ》のつもりだったよ。だけど──だんだん……いまじゃ、良がいなけりゃ、生きていけない、良を失うなんて耐えられないんだよ。おれは──こんなことは、はじめてだ……どうしていいか、わからないんだよ」 「だって、そんなこと云ったって……」  良は苛立たしく山下を押しのけた。 「ねえ、いま何時?」 「十一時ごろだろ──ああ、もう十二時だ。十分すぎだよ」 「十二時十分すぎ?」  良は急にうろたえた顔をした。 「先生、ぼく帰る」 「良──まだ話が済んでないよ」 「そんな話、したってどうにもならないじゃない」 「良!」 「ねえ、先生、ぼくにどうしろって云うの。ぼくは、嫌いだったらこんなことさせやしない、何買ってくれるったって、先生のうちになんか行かないよ。先生は、やさしくて、何でもきいてくれるから、ぼく好きなのに、どうしていいかわかんないのは、ぼくの方だよ。どうしろって云うの──ぼくの何がわるいの、気にくわないの」 「そんなこと──云ってやしない」 「だって、じゃどうすればいいの──苦しいよ、ゆるめて」  良は砕けるほど抱きしめてくる男の腕にあらがって身もだえした。 「いやだ。はなさない」 「息──止っちゃうよ」 「良、お願いだ。おれを苦しめないでくれよ」 「だからどうすればいいのか云ってよ」 「おれは、きみが欲しいんだ。おれの、おれだけのものにしたいんだよ。そうしたら、何でもやる、このうちも、ありったけの金も、生命も、何にもいらない。ほんとうだ」 「そんなもの」  良は高慢な顔をした。 「欲しくないよ」 「良!」 「ねえ、お願い。滝さん帰ってきちゃう。先生はぼくが滝さんに怒鳴られた方がいいの? へたしたら、殴られちゃうよ。もう帰して、そんなら明日また会うから」 「それもだよ、良」  山下は悩ましげに云った。 「それもおれは──どうしてきみは、そんなふうに奴に忠実なんだ。奴に威張らしとくんだ。奴を気にするんだ? 良のことを怒鳴るなんて──他の奴になら、そんなことをさせとく良じゃないじゃないか」 「滝さんは別なんだもの。マネージャーだもの、しようがないでしょう」  なんだ、結局いつものやきもちじゃないか、といくぶん気が楽になって良は思った。 「別なことなんかあるものか。良、何度も云ってるじゃないか。あのうちを出てくれ。それだけでも、おれは、ずっと気が楽になる」 「だって……」 「いつも、それなんだ」  山下は重苦しい怒りと悲哀にとらわれて叫んだ。 「きみは、おれが何か云うと、いつも何のかんのと云って、結局何ひとつ変えようとはしないんだ。きみの云ってることは、全部その場逃れじゃないか。それなんだよ、おれが辛いのは。おれはもうきみなしじゃ死んでしまう、きみが他の奴と話をするのだって我慢できない。滝だの、白井みゆきの婆あにきみがおれにするように甘えたり、ああやって何か云いたそうな目でじっと見あげたりするんだと思うだけで、気が狂いそうだ。良、いったい、滝とおれと、どっちが好きなんだ。どうして滝にあんなにおとなしく云うなりになって、がみがみ云わせて、一緒に暮しているんだ。そんなに滝が好きなのか。だけど、滝には、花村ミミってものがついてるじゃないか。なんで滝に義理だてするんだ。奴はきみを商品として扱うだけじゃないか。ご生憎様だ──奴は、扱うタレントを人間だなんて思ってるもんか」 「そんな云い方、しないで!」 「奴がきみに何をしてくれるっていうんだ。何もしてくれやしないじゃないか。なんで、滝を気にするんだ。おれは、この一週間きみ以外のことなんて何ひとつ、それこそ何ひとつ考えてやしないよ。きみのためなら何でもする、わかってるじゃないか? だのにきみはおれをごまかしてばかりいる。もう、耐えられないよ、良、おれはきみをおれのものにするか、気が狂ってだめになっちまうか、どちらかしかない。この一週間というものきみに会えなくて、きみを抱けないで考えていて、はっきりわかったんだよ。もうこれ以上きみに適当にあしらわれて利用されているのには耐えられない。今夜はもう滝のところへは帰さない」 「いや、そんなの!」  良はしだいに山下の激昂に不安になりはじめていた。山下の手をはなそうともがいた。 「帰してよ──滝さんきっともう帰ってる。ぼく帰らなくちゃならないんだ」 「だめだ、帰さない。滝に、きみは誰のものか教えてやる」 「ぼ──ぼくは誰かのものなんかじゃない。ひどいよそんなの、ぼくはぼくだよ、ものなんかじゃない、誰のものにもなるもんか!」  良は不安と怒りのはざまで恐いほど美しかった。山下は喘いだ。 「はなさない。誰にも渡さない──良、好きなんだ。死ぬほど、好きなんだよ!」 「ねえ、お願い、先生いつもやさしいじゃないか。ぼくを苛めないで、帰らせて。いつだって、先生の云うとおりにしてるじゃないの」  良は甘えの戦法に切りかえた。 「どうして、今日にかぎって、そんなこと云うの。気にいらないことがあるなら云ってよ。ぼくわるかったら直すから。でも、こんなふうにしてぼくを苛めるなんて、ひどいよ」 「だめだよ、良」  山下は良を抱きすくめる腕に再び全力をこめ、良は苦しがって喘いだ。 「今日は──だめだ。逃がさない、その手はきかないよ、おれは一週間悩み抜いたんだ。きみは嘘つきの、わるい子だよ、良、そんなことを云って、きみは早く滝のところに帰らなけりゃと思っているんだ。今夜は帰さない。今夜、帰らないでいてくれたら、良を信じるよ、何でも、どんなことでも、腕一本切れって云われてもきいてやる、二度と良にひどいことはしない、何でもきいてやるよ。だけど──お願いだ、良、一度でいいんだ……おれを嫌ってるんじゃない、滝なんかどうでもいい、おれを適当にごまかして利用してるだけなんじゃないってことを証明してくれ。頼むよ、良」 「先生──泣いてるの?」  良は驚き、少し面白がって叫んだ。山下は良の頬に濡れた頬をすりつけた。 「良のせいだ」  彼は呻いた。 「良がおれをこんなに狂わしたんだ」 「今度──」  良は困惑して云った。 「ね? 今度絶対泊ってくから──お願い。今夜は、滝さん──心配するよ。きっと、ぼく張り倒されちゃうよ。あの人すごく手が早いんだから。ぼく、あの人こわいんだ。お願い、ね、お願い、今度」 「そうか──」  山下はちかぢかと良の目をのぞきこみ、その哀願の表情をたしかめながら呟いた。 「きみは、滝にも、嘘をついてるんだな。おれと遊んで、それで滝が帰ってくるまでにはすましてどこにも行かないって顔で──きみは滝にもおれにもいい子でいようっていうんだ。きみはわるい奴だ──嘘つきの悪魔だよ。きみは、男を、何だと思ってるんだ」 「どうしてそんなこと云うの──」 「そんな目をして、おれをごまかそうったってだめだよ」  山下は云った。 「おれがどんなに、きみのことを初心《うぶ》な、素直ないい子だと思いたかったか、知ってるだろう。いろんな話をきいても、そんな子だからこそ誤解されやすいんだと思ってた。きみがたちまちばれるような嘘をつくときだって、根はいい子だから、おれを傷つけたくないからなんだとか──無理に、そう思ってたよ。マルス・レコードの販売部長の喜多は、おれに、きみのことを、人に打ちとけない、強情な子で、そのくせ自分のためになると思うと色目を使う、よくない子だ、気心の知れない、ずるい奴だなんて云ってさ。おれはそれで喜多と大喧嘩したよ。そのおれに──いまさら、奴が正しかったなんて云うのがどれだけ苦しい辛いことかわかるのか。おれはきみの嘘を知ってから、一週間、そのことで悩みつづけだった。きみがどういう子だからって、いまさらきみを嫌いにはなれやしないよ。だからきみから電話があったときおれは──それでもいいと……どうせきみなしでは生きていけないなら、一度だけ、たったいっぺんだけきみにこれっぽっちでも真実があるなら──おれに実を見せてくれるなら、それでもういい、ごまかされようと、利用されようといいじゃないか、そう思ったよ。おれがこれだけ苦しんでるんだ、少しはきみだって悩んでやしないか、嘘がばれて、赤面してやしないか、そう思ったら可哀そうで何も気にしなくていいんだよと云ってやりたくて……何もなかったことに、これまでの喧嘩みたいに──だのに──だのにきみは……芯の芯からわるい、いいかげんな嘘つきで、嘘の上に嘘をぬりかためて、滝のいい子のままでおれを手玉にとろうとして、そんな目をして見せるんだ! だめだよ、良、滝がどう思ってるのか、どこまで心得てるのか知らないが、もう今夜は逃がさない。そのためにきみに嫌われても──明日になったら許してくれ、おれがわるかった、二度としないからと泣いて這いずりまわるのはわかっていても、今夜はきみはおれのものだ。絶対に帰さないよ」 「ひどいや」  良は小さく云って、抵抗を諦め、そっと身をのばした。 「お願いだから少しだけ手、ゆるめて。わかったよ。逃げないよ──今夜、泊れば気が済むんだね。そんならそうする。でもあしたは仕事にまにあうようには、送ってよ」 「良──」  山下は、拍子抜けしたような声を出した。良は冷たく山下を見て、かすかに笑って目を閉じた。 「ぼくのこと、そんなふうに思ってたのか。なんだ……知らなかったよ。何でもきいてくれて、やさしくしてくれて、──嘘つきは、先生じゃないか」 「良! おれを、困らさんでくれ」 「困らしてるのどっちなの。ぼくはこれであした滝さんにいやというほどどやされるよ。だけどそれで先生の気が済むならきくって云ってるのに、まだ何かあるの」 「良──怒らないでくれよ。な、おれから滝に云ってやるから──良はおれが泊めたけど、別にわるいことないだろうってさ」 「……」  良はまた困惑したが、ようやく気の静まってきたらしい山下の激昂を再び誘い出すのを恐れて黙っていた。 「良……おれの気持も、わかってくれよ……」  山下の唇が良の唇の上にきた。同時に、ぼってりと重いからだが上に乗りかかってくる。良は山下の執拗な接吻に耐えた。 「好きなんだよ──こんな苦しい思いをしたのは、はじめてだ。きみが、ほんのちょっとでいいから、おれを好いてくれさえすればなあ……」  良は目をつぶったまま、山下の重いからだの下で明日滝に何と云うか考えていた。  ほんとに、しかたなかったんだよ。いきなり、ひっぱりこんで鍵かけちゃって出してくれないんだもの。ぼくはわるかないよ、ぼくは帰らしてくれって頼んだのに──あの人少し変になってきちゃって、ぼく恐いよ──それで、滝が山下を追い払わねばならぬとあらためて肝に銘じ、策を講じたところで、知ったことではない。  どうせ、いずれは、追っ払うつもりだった。山下は便利で気楽な存在だが、別に山下でなければということはない。特に、白井みゆきと関係を持ってからはそうだ。  いつかはそうなるとわかっていたが、誕生パーティーだと呼び出して、行ったら佐伯もいず、ろうそくを吹き消したところで抱きしめられ、接吻された。可愛い、食べてしまいたい、とさんざん囁かれたが、内心で良は女は汚い、と冷やかに考えていた。  女はいやらしい。ねっとりして、暑苦しくからみつく。軟体動物のようだ──だが山下の欲望と、白井みゆきの欲望と、別にまさり劣りはない。どちらも良には耐えねばならぬ時間だというだけだ。  佐伯はたちまち勘づいて、ときどき滝のいない夜に誘いに来るドライブの車中で、ひどく笑い、良を苛めた。よかったか、としつこく問いつめ、ここをこうするとああだの、こうだのといやらしく囁いて、その夜は妙に昂奮して良をはなさなかった。  しかし表面では三人とも何ごともない顔をしているし、ことに佐伯は良の立場をちゃんとわきまえてくれているのがありがたい。いまに面白いことにしてやるから見てるといいよ、と彼は良の耳を舌でねぶりながら囁いたのだ。楽しみにしといで。おれ、いっぺんためしてみたくてね──佐伯の|つもり《ヽヽヽ》はかつて滝に売られてそうして弄ばれたこともある良にはすぐわかってしまったが、良は何もわからぬふりをしていた。  そのあと、白井みゆきは、自分が二人の、それも十八の少年と二十六の男をあやつっている、という考えがまったくお気に召したらしく、何でも良にくれたがる。飼い馴らして、口封じのつもりだろう。まったく、山下でなければなどということはないのだ。 (それに、みんな、どうせ勝手なことばかり云って、心の中では、ぼくをおもちゃにすることしか考えていやしない。みんな遊びのつもりで、いいおもちゃのつもりでぼくに近づいて、しばらくたってもぼくがちっとも相手を好きにならないでいると、こんどは少しでいいから好きかとか、愛してるとか、死んでもいいとか云い出すんだ──言葉ばっかりだ──嘘つきは向うじゃないか。ぼくは信じやしない。誰も、信じやしない)  その(誰も)には、しかし、滝が抜けていることに、良は気づかないでいる。滝は良にはむしろ自分の一部に近いものに思えるので、いつも良が考えるとき滝を除外しているのは、良にとってそれを気づかないくらい自然なことだったのだ。  滝が山下に電話をかけてくるかもしれないと良は思った。滝は良の行動半径ぐらい、たちどころに見当がつく。 (そんならそれで片がつくし──だめならだめで一回どやされればいいんだ。どうってことないや──何でも大したちがいはありゃしない、何がどうだってかまやしないや)  山下と別れようと、くっつこうと、誰と寝ようと、どうでもいい、と思い、良は投げやりに山下の愛撫に身をまかせていた。  そんなことにこだわっている山下が、愚劣に、わずらわしく思える。良の思いの中では、たいていのことは、何がどうなろうとどうでもいい、たいしたちがいのないことなのだ。  良は自分から行動したり、自ら律したり、選択したり、ということのほとんどない性格だった。そうして良が流れに身をまかせていればいるほど、どんな体験も、他人のどんな感情も、良を汚すことはできずに、良の外側をすべり落ちていってしまうのだ。  良の従順は良の最も激しい拒否だった。その小さな芽にすぎなかった性格は、人に望まれ、欲され、抱かれ、弄ばれる日々の中でみるみるはびこり育っていた。 「きみは──ひどい奴だぞ」  山下の呻くような声が、良を投げやりな物思いからひきはなした。 「こんなきれいな顔をして──残酷な、悪魔みたいな奴だ──おとなを、ばかにして……許せない」  山下は良の頬といわず、咽喉といわず、胸といわず、狂ったように頬をすりつけ、唇を押しつけ、良が声をあげるほど強く抱きすくめてくる。  良の心が彼の愛撫を受けながら彼の上にはないことを悟り、彼の目は悲しげに光っていた。しかし山下には、そこまで良をむざんなわるい冷酷な小悪魔と知るだけの勇気はなかったのにちがいない。 「──おれは、一体どうしたらいいんだ……」  山下はきつく良を抱きすくめながら呟いた。 「いっそ、きみを殺せたら──きみに暴力がふるえたら──わるい、嘘つきの、可愛いきみをいっぺんでいいからこらしめて、おれの云うなりになるようにしてやれたら……ああ、良、きみが欲しいんだ──欲しいんだよ──」 「あ……」 「おれは、滝みたいに、残酷になりたいよ」  良はびくりとした。  何を云っているのだろうかと、ことばの裏の意味をさぐるように、おぼろげな灯の中の山下の顔を見あげる。良のからだの上には、山下の肥満したからだがすっかり乗っていて、良は息苦しかったが、そう口に出す勇気はなかった。 「先生、ぼくを苛めないで」  良は少しかすれた声に、甘えるような媚を忍びこませた。 「滝さんは怒ってばっかりいるし──ぼくは、誰もやさしくしてくれる人がいないんだもの。先生だけだよ、ぼく、何でもきいてくれるの──ぼくだって何でも先生の云うとおりにしてるじゃないか。今夜だって、ちゃんと泊っていくじゃないの。ぼくどうして先生がやきもちやくのかわかんないよ──こんなにぼくを苛めて、可哀そうだと思わない?」  良は調子にのってつい口をすべらせた。 「あんまりしつこくすると、もう先生なんか、嫌いになっちゃうかもしれないよほんとに」 「良」 「だから──いつもみたいに、やさしい、云うことをきいてくれる先生でいてよ。お願いだから」  云ったとたんに山下の目が光ったので、あわてて云いつくろおうとことばをついだが、山下はごまかされなかった。 「おれが嫌いか? 良──おれがしつこいから、嫌いなのか、良、それが──本音なんだろう」 「また、あげ足をとる」 「良──」  山下はわななくような呼吸をしていた。 「良、おれが嫌いなのか」 「そんなこと云ってないったら──ひと晩、そうやってからんでる気」  良は瞬間的に怯えた反動に、腹が立ってきた。せっかくこっちから折れて出て、電話で呼び出してやったのに、こんなにうるさくするなら、呼び出したりするのではなかったと思う。  無理矢理に、ひきとめられたのも、犬と同格に見做していた奴隷が突然さからったことに皇帝が驚くように、心の底で許せぬと叫び立てているものがあった。あやふやな主権には、良は満足できなかった。 「ねえ、もういいかげんにしてよ。泊ってくんだから、それでいいじゃない。あしたぼく早いんだよ──もう、寝かせてよ。もし、ひと晩そんなことつづける気なら、ぼくやっぱり帰るよ」  いきなり、ゆるんでいた山下の腕からすりぬけて、良は身を起した。 「そんなふうにからまれるの嫌いだよ、ぼくは」  腹を立てたまま、服を手さぐりしているのを、はねおきた山下が猿臂をのばして手をつかみ、ベッドにひきたおし、馬乗りになった。 「どこまで、おれを、苦しめるんだ、良!」  再び山下は激昂しはじめていた。 「どこまでいっても、ごまかしばっかりじゃないか!」  やにわに山下の大きな手が良の頬に鳴った。山下が、良に暴力をふるったのは、はじめてだった。良の頬から血の気がひいた。 「ぼくにそんなことをするんだね!」 「良──」 「ぼくに暴力をふるうなんて! 大嫌いだそんなの! 我慢できないよ、そう云ったじゃないか。ぼくに──ぼくにそんな──先生がそんなことするの?」 「良! どうして、滝ならよくて、おれならだめなんだ! きみは、そんなにおれをばかにしてるのか。おれだって男なんだぞ! いったい、そんなこと、考えてみたことでも、あるのか。おれだって男なんだぞ! こうしてやろうと思えば、無理矢理だって、できたんだ、それを……」 「何するんだ!」 「きみを、おれのものにするんだ」  山下は喘いだ。良は突然の反乱、ふいに牙をむいた、忠実な犬の反逆に肝を抜かれて、目ばかり光らせながら山下を見あげた。 「やめてったら、そんなことしないで!」 「良のからだには、残酷だと思ったからおれは──おれはどんなに我慢して……だのにきみは──きみはおれをばかにして──男を……」 「いやだったら、やめて! そんなことしないから先生好きだって云ったんじゃないか! いやだ、ひどい──嫌いだ先生なんか……ああ! やめて、お願いだから──いたい!」 「良──お願いだ──」 「いたい──だめ……やめて……」  良は悲鳴をあげた。恐怖がつきあげてきて、良は山下に無理矢理にからだをねじまげられたまま、ほんとうに怯えきった表情になっていた。山下の唇がわなわなと震えた。 「良……」 「お願い──勘弁して、ぼく──だめなんだ──何でも……何でもするから……」 「良──」  山下は喘ぎ、ためらい、呻き声をあげた。ふいに彼のからだから力が抜け、彼は良の上にがっくりと顔を伏せた。 「だめだ──おれには……だめだ、可哀そうで、できないよ──そんな酷いこと……」  山下は呻いた。 「どうしても……畜生! きみに、みすみすまたごまかされちまうことはわかってるのに!──おれは……だめだ──」  山下は激しく、慚愧をかみしめるように良を抱きしめ、顔をすりつけた。良は身を震わせ、蒼白になっていたが、ふいに媚をひそめた怯えの表情で山下にしがみついた。 「良──」 「ぼくを苛めないで──お願い、もうぼくを苛めないで! お願いだから……先生……」 「良……」  山下は再び、断腸の呻き声を押し出した。山下の胸に身を寄せて、かすかな嗚咽の声を洩らしている良の表情には、その場逃れの、気まぐれな打算というほかに、何の真摯さも、素直さも見出すことができない。だが、かきたてられた反逆のときがむなしくついえ去ってしまったあと、山下に残っているのはにがい惑溺と、憤懣をひそめた屈従のほかにはなかった。 「良──勘弁してくれ」  山下は力なく、良を抱きよせ、ひきよせしながらつぶやいた。 「もう……あんなひどいことはしないよ……」  良は力尽きたように目を閉じて、山下の胸に頭をもたせている。山下はおそるおそるそのまぶたに唇をつけた。 「きみをはなしたくないんだよ。きみがいなけりゃ──おれは、生きていけないよ。何でもする──どんなことでもきくよ、もう、良のすることにうるさくなんか云ったりしない。良がいやなら、やきもちもやかない──だから、良──おれを、嫌わないでくれ。会ってくれるだけでいいんだ……良、おれの良──好きなんだ……どうしようもないんだよ──」  良は黙って、山下の唇と手がかわるがわるに愛撫するのに身をゆだねていた。  かすかに眉根を寄せた顔は、青白く、物に倦んだような翳をはいて美しかった。山下はその顔に見入り、何度もその唇やまぶたに唇を押しあてながら、たまりかねたように低い苦悩の呻きを洩らした。  やがて、彼は良の頭を胸にもたれさせ、その髪をまさぐりながら疲れはてたように静かになった。眠ったのだろうか、と良はそっと目をあけてようすをうかがい、それから薄明の中に目を見開いて、どこを、何を見るでもない視線を宙にむけた。  無感動な、空をさまよってそのまま自分の内に沈んでしまうような目である。冷たい、どこか精神の異常を思わせてけだるい目だった。良は、山下の胸にもたれたまま、何を思うでもなく、睫毛をあげ、瞳を上にひきつけて、じっとしていた。  山下がもしその目を見たら、覚えず戦慄したかもしれない。それはどこか淫婦のふてぶてしさとものうさを漂わせていた。それは神でも悪魔でもないような地上の愛ではもはや届き得ないような、恐怖させる鮮烈な異次元の生物の目に似ていた。 「良……」  かすかに呟いて無意識のように男の手が良の髪をかきみだし、ひき寄せる。なされるままに無表情に目を見開いている良の内には、しかし、山下の哀しみやそれはまぎれもない真実や、苦悩の、影さえも落ちてはこないのだった。 (ぼくに手をあげるなんて許せない)  良の怒りは、激しい炎ではなかったが、扉がぱたりと閉じるのにも似た冷やかで決定的な拒絶だった。  男が、自らの奴隷であり木偶であり、木片を投げれば走っていってくわえて戻ってくる従順な犬であることに、良は狎れていた。その、奴隷の反逆というには短かすぎる、あわれを誘うあがきでさえも、良は、許しがたく思う傲慢な僭主だった。たやすい勝利に、良は狎れ、気を許しかけていたのだ。それはいっそう冷やかな恐しい瞋恚をかき立てた。 (もう沢山だ。ぼくにあんなこと、するなんて──だんだん、うるさくなってたんだ)  良は思った。しかも、ただその冷たい、愛を知らない僭主の心にだけ思ったのである。  その夜は、山下の苦渋と、屈服、良の拒否よりも冷やかな従順とものうい苛立ちとがからみあい、たゆたううちにすぎた。  翌朝早く、すっかり大人しくなって良にシャワーを使わせ、コーヒーをわかして飲ませ、マンションまで朝の八時に送ってくれた山下に、良は不必要なくらいやさしくして、甘えてみせ、山下を不安なくらい濃密な蜜の中に溺らせるために心をくだいた。  心の中で関心を失えば失うほど、良は、相手に愛想よくするのを楽しんだ。山下にはそんな区別はつかなかった。滝はとうとう電話をかけてよこさなかった。 「じゃあ、今夜都合わるいようなら、明日でもね」 「ああ、じゃ一応千秋楽なんだし、日東劇場へ行くよ。なあ、良──寝不足なんじゃないか? 大丈夫か?」 「平気、一晩くらい──それに明方ちょっととろとろしたもの。汚い顔してる?」 「そんなことない。ちょっと、疲れたような顔で、きれいだよ──ああ、ほんとに、きのうのことは忘れてくれよな、良」 「もういいったら。じゃ。送ってくれてどうもありがとう、先生も帰ったら少し寝た方がいいよ」 「ああ、じゃ、また晩にな、良」 「うん、じゃあね」  立ち去りがたいようすなのを、なんとか追い払ってから、良は、エレベーターを使わずに、ゆっくり階段を三階まで上った。  天気のいい朝だ。空気の中に、秋がある。これから滝だぞ、と良は考えた。  山下が、ついていって、滝に釈明すると云うから、何とかなだめて帰らせるのにひと骨折ったのだ。どうせ行くさきは見当もついていただろうが、それにしても無断外泊の朝帰りというのは、さすがの良もはじめてだった。  一時に帰ってこっぴどく怒られてからは、一応十一時を門限ということにしている。おれはお前の保護者だ、責任がある、というのが滝の口癖だ。  ひとつふたつ、殴りとばされるのは、仕方あるまい、と良は考えた。山下に手をあげられるのと、わけがちがう。つまりは、滝の場合には、良の方が滝にその資格を認めているわけだ。滝は怒っているだろうと、おそるおそるノブをまわすと、あいていた。  そーっと、まだ寝てたらいいのにと首をのばすと、滝のサングラスをはずした目が、まっすぐに見ていた。  ダイニング・キチンのテーブルに肘をつき、新聞を読んでいたのが、ゆっくり新聞をおいて立ちあがる。良はそら来たと首をちぢめる。  滝は悠然と歩み寄って、良の手をつかんでひっぱりこみ、ドアをしめてから、ぐいぐいとひっぱって居間へ入りざま、思いきりばしんとやった。  良はソファまでふっとんで、よろけこんだ。それを、衿をつかんで、もう一発くわせる。 「ご──ごめん」  良は喘いだが、こわいのと、ごまかしたいのと、むかっ腹が立つのに入りまじって、妙に安心したような気持もしているのだった。 「ごめんなさい」  滝はおまけをもう一つ、こんどは軽くぱちりと叩いて、顎をしゃくった。テーブルに、朝食が並べてある。  何も云わぬまま、滝は椅子に戻って、新聞のつづきを読みはじめた。滝の読みかたは、いわば目で活字を飲んでゆき、興味をひいたものはあらためて咀嚼する、というようだ。背中が、呆れたものだと云っていた。どやしつけられた方がまだましだった。 「ねえ、ごめんってば、しょうがなかったんだよ、ぼくひどい目に──」 「云いわけなんぞきかん、黙ってろ」  滝は云った。良はしょげて立ち尽したが、ふいに、まだひりひりする頬を掌で押さえたまま、目を丸くした。  寝室の戸が開いていた。良のベッドは、きのう帰ってきてからごろりところがったから、ベッドカバーが少し乱れている。  滝のベッドの方は、きっちりとととのえられたままだった。もう直したのかと滝を見ると、昨夜のワイシャツとズボンのままだ。袖をまくり、衿をあけている。別に目をしょぼしょぼさせてもいなかったが、テーブルの上の灰皿を見て良はまた目を丸くした。煙草ふた箱分以上の吸いがらが山になっている。  滝は新聞から目をはなさずに、ブラック・コーヒーの湯気のたつカップをつかみとり、口に持っていった。あいた椅子の上に、していたらしい仕事の書類がつんであった。 (滝さんは寝てないんだ──ぼくを待ってた……ひと晩?)  ふいに良の中に疼くようなものがこみあげてきた。それは、嬉しさ──というよりは、誇らしさ、にむしろ近かっただろう。  いきなり、良は、滝の背中にとびついて、衝動的に頭をこすりつけた。甘えかかりたくてたまらなくなり、どれだけ甘ったれても満足できないような凶暴なほど鋭い甘さがむくむくと良の中に起きあがってきた。 「何だ、お前」  滝は怒って怒鳴った。 「機嫌をとりさえすればおれが許すと思うのか。暑苦しい、やめろ」  だが、そう怒鳴った滝の方も、ふいに少なからずうろたえている。ライオンの仔がふざけちらしてとびついてくるような、凶暴な甘えの中に、無防備な良の心がひそんでいた。山下が、どのように苦しんでさえふれることもできぬ、ダイヤモンドの固さと透明さに守られた稚い心である。  良は、いつでも、滝を少しこわがって、滝の関心と愛情のしるしをさいげんもなく欲しているが、それがこんなふうにふいにさしつけられるのはまったくまれで、それだけに良の心の敏感な部分には、酔いしれたような誇らしさを伝えてくるのだった。 「ごめん、ねえ、ごめん」 「仕様のない奴だ。お前は、どうしてそうなんだ」  がみがみ云いはじめれば、もういつもの滝だった。良はずるそうな顔で見あげた。 「ひどいめにあっちゃったよ。ぼくこんなことだと思いもしなかった」 「山下だろう」 「うん──うちに、連れてって、あがれって云うからさ……そしたら、いきなり、今夜は帰さないって云うんだもの──ひどいやあんなの、だましうちだ。帰してって頼んだのに──電話だけかけさしてって云ったのに、大体滝はきみにきびしすぎるなんて云ってさ。もう子供じゃないとかって……いくら喧嘩のあとで久しぶりだからって、あんな……」 「おれや清に嘘をついて抜け出したりするからだ、自業自得だ」 「なんでえ、清の奴云いつけたのか」 「つまらんさか恨みをするな、清は何も云いやしない」 「まったくひどいや。ほんとだよ、ぼくのせいじゃなかったんだよ、ぼく飯食わして貰おうと思っただけだったんだもの。あると思って帰ってきたら、食うものなかったからさ」 「シチューの残りはけさおれが捨てたぞ」  滝はぴしゃりとやっつけた。 「お調子者め」 「そんなこと云わないでったら──とにかく全然はなしてくれないんだもの。滝さん、電話してくれたらよかったのに」 「おれの知ったことか、おれに嘘をついて抜け出すような奴のことなんか」 (だけど、一晩寝ずに待っててくれたくせに──きっと、すごく心配してたんだ)  良は、輝くような微笑を見せて、コーヒーを飲んだ。 「何だお前、何を嬉しそうにしてるんだ。おれは怒ってるんだぞ。笑ったりして──もっと真剣になったらどうだ。またひっぱたくぞ」 「いやだよ、顔はれちゃうよ」 「まったく手におえん奴だ。お前は、ちっと、増長してるんだ」 「そんなことないったら」 「餓鬼の分際で朝帰りなどしやがって──これ以上、おれの云うことをきかないなら、もうおれは知らんぞ」 「もうしないってば」  良は上目づかいで滝をうかがい、小さな声で云った。 「ねえ」 「何だ」 「──この次の新曲いつ?」 「暮れまでには──なぜだ」 「また山下先生?」 「わからん」 「ねえ、滝さん、はじめすぐ別の人にするって云ってたじゃないの」 「そのつもりだったが、ヒットすりゃ、まわりが承知せんのさ。勝てば官軍だ、仕方がない。奴もお前にくっついてりゃ確実にランクがあがるから、どんなことをしても、お前をはなしたがらんしな。しょっちゅう、社長や佐野に飲ましたり、いい顔して見せてるのは、わかってるさ。まあ、それだけだと云ったら、たしかに奴さんに不公平になるがね」 「ねえ」  良の声にはびろうどのようになめらかな調子が忍びこんできた。 「もう、ちがう人に頼むわけに──いかないの?」 「いかんこともないだろう」  滝は落着き払って煙草に火をつけ、じろりと良を見た。 「いやか、先生は」 「だんだんしつこくなってきやがって、ぼく恐いよ──ぼくに、暴力ふるいやがった、あいつ」 「目上にあいつとは何だ」 「だってさ」  良は共犯と信じていた相手にぴしゃりとやっつけられて、不服な顔になった。 「うるさくって、気持わるいよ。あのやきもちは、まるで、病気だよ──知ってるでしょう……」 「そりゃ、知ってるが」  滝は目を細め、考えこむ表情になった。 「長くつきすぎたんだ」  良は云った。 「すぐに、ぼくのために使った金がどうのこうのって云いだすしさ──ぼくを殺すみたいなことわめき立てて、ぼく──こわくなっちゃった。ぼくに、おれ以外の奴と、話をするのも、ただ食事するだけでもいやだ、たまらないって云うの。わあわあ、うるさいから、しばらくほとぼりをさましてやろうと思ったら、かえって頭に来ちゃったみたい。──どうしてここに住むんだって会うたんびに責めるんだからね」 「それで、帰さなかったってわけか」 「頼むから帰してよって、今度滝さんに断ったときに泊るからって頼んだのに、ききもしないの」 「そいつは、どうも、少し異常だな。物騒になってきたじゃないか」 「そのうちに、ほんとうに出刃包丁でも出てくるんじゃないかと思うと、ぼく、いやだよ」 「お前のせいなんだぞ、いいときばっかり機嫌をとって、うまく立ちまわろうとするからだ」 「だって……」 「だってじゃない。しかし──」  滝は考えていたが、心を決めた。もう潮時だ、と思ったのだ。もう、良の人気は、山下ぐらいのバック・アップをぜひとも必要とするなどという段階をこえている。キャリアは別とすれば、人気と、出せばヒットという実力だけならもうトップ・スターに伍すると云ってよい。 「よし、わかった」  滝は煙草の灰を叩いた。 「おれに任しておけ。なるべく上手に、だんだん遠ざけるようにしよう。まあ、またおれが憎まれ役になればいいんだからな──うまくいくだろう。おれの勘では、こんどのはミリオンを出さんぞ」 「どうしてよ」  良はむっとした顔をした。滝は笑った。 「おれの勘だよ」  にやりと片目をつぶって見せる。 「心配するな──で、まあ、『裏切りのテーマ』以来『ガラスの天使』に『ラブ・ミー・ベイビー』と三曲ミリオン・セラーがつづいて、どれもトップをとってたのが、こんどはまあ五、六位どまりでおわり、ミリオン・セラー連続の記録もストップ、ということになると、まわりがたちまちさえずりだすだろう。ようやく中だるみのジョニー人気、とか、飽きられてきた? ニュー・ポップス路線、とかね。そこでじゃあテコ入れしてみよう、ひとつ曲を変えてみよう──お前は、結城先生は、嫌いか?」 「結城修二?」  良はひどく眉をしかめた。 「いやだよあの人、威張ってるから」 「どうしてだろうな、あんな立派な男を」  滝は笑った。 「あんな──あんな気障な奴。髭も気にくわないし、いかにもいい男ぶってるのもいやだな。あの人はやめてよ」 「よしよし」  滝は甘やかすような声を出した。 「なら、誰かあるだろう。一流中の一流クラスでな。いまのお前なら、たとえ≪小河天皇≫だってよろこんでひきうけてくれるぞ」 「わあ、いやだ、演歌は」  良はうきうきしているようだった。  滝とかわしていることばのひとつひとつが、山下と、山下の良への執着に無情な宣告を打ちこむような冷酷なものなのだ、ということに、いったい良は気がついているのかどうか、滝は疑った。  それとも、良の魔性は、残酷に人の心を踏みにじるたびにいよいよ美しく、溌剌と、生気を増してゆくような種類のものなのか。 「それならデュークも、マルスの連中も納得するだろう。しかし、おれは物事を穏当に運ぶたちだからな。急に掌をかえしたようにするなよ、それこそナイフが出てくるぞ」 「わかってるって」  良は馴れあったような微笑をむけた。 「まだ当分、先生には内緒だよ。せいぜい、やさしくしてやるよ」 「お前は、ワルだなあ」  滝はゆがんだ笑いをうかべた。いくぶん、錯綜した思いをのぞかせる笑いだ。  良は、滝には、無防備に手の内を見せている。安心しきっている。何があっても自分の側についてくれる人間として、無意識に別扱いをしている。それが可憐に思えるだけ、胸の煮えるようなものをもまた感じずにいられない滝である。  この魔物は、自分が育て、自分がその小悪魔のしだいにはびこっていくのを見届けているものなのだ、と思うと、滝は奇妙な戦慄と執着を同時に感じるのだった。 (良の奴は、その反撥にも、信頼にも、|わるさ《ヽヽヽ》にも、どれにも自分ではわかっていないかもしれんが、こっちの身にこたえる毒があるのだ。近づくだけで、こいつは危険なのだ)  自分がそれを恐れなくなっているとしたら、それは彼がもはや心の底まで、山下とはちがうふうにであってもやはり良に食い荒され、むしばまれ、もはや救いがたいくらいに中毒してしまっているということでしかないだろう。  しかし、そう考えながら、ふしぎに滝は動揺も、不安も感じていない自分に気がつくのだった。  それを滝は、自分の変化のためだとは思わなかった。彼は、それを、自分と良との関係が第三の段階へ入ったというきざしなのだと思っていた。はじめの、反撥と征服欲、拒否と力の拮抗のもつれた思いから、不安な信頼ともいうべき、恋の激しさを残らず秘めて揺れ動く季節へ、そしていまはむしろ、心の深いところをわかちあって、どこか安心しきった親子か、夫婦のような理解が二人の関係の底にある。  良は滝に甘え、もたれかかり、まかせきって、滝はそれを苦笑まじりに受けとめ、自分にその力があることによろこびを感じる。  それでいいのだと滝は思っていた。いつでも彼がいる。良を見ている。良もそれだけを飽くことなくむさぼりたがる。遠くまで来た、と滝は思った。しかし、ここに来た、それでいい。  彼は、そんな穏やかさがきわどい感情の均衡の上での、わずかなひとときの陽だまりであろうなどと、思ってもいなかった。彼は遂に良の心を得たと思い、そのことに狎れはじめていたのである。 [#地付き](4につづく) 〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年八月二十五日刊